8.ただの“郁夜”
「――それで、何考えてたの?」
話を戻そうとしたら、車体が一度大きく揺れて、また静かになった。エンジンの音がしない。車が停まったらしい。わたしは揺れた拍子に荷台の内壁に頭をぶつけてしまい、思わず小さく声を上げてしまった。
「大丈夫か?」
ぶつけた後頭部を擦っていると、わたしの膝の上に寝ていた彼は身体を起こし、患部へ手を伸ばす。優しく探るような手つきで、毛並みに逆らわないようにゆっくりと撫でられる。
膝枕なんてわたしの方から大胆なことをしておきながら、いざ彼の方から触れられると妙に緊張してしまい、何も言葉が出てこなかった。
「コブにはなってないみたいだな」
それだけ言うと、彼は荷台の扉を開けて、早々と降りていってしまった。わたしもすぐに彼の後を追って、荷台から降りた。
「ちょっと、質問に答えてもらってないんだけど」
先を行く彼の背に声を投げてみても、彼は振り返らない。真夜中なのであまり大きな声は出せなかったが、聞こえていないはずはない。わかっていて答えずに逃げ切るつもりなのだろう。
真夜中なのに辺りは想像以上に明るく、月と星の白々しい光に照らされた一軒の和風家屋が目に留まる。辺りを見回しても家らしきものはここだけで、きっとここが
小高い丘の途中に建てられた家で、面している坂の上は丘の頂上に続いているらしい。坂の下を見れば、だいぶ先は住宅街へと続いていた。道の両脇は木々に囲まれ、人の気配はほとんどない。
今まで暮らしてきた環境との違いに、まったくの戸惑いがないかと言えば嘘になる。でも、こんな自然に囲まれた生活も悪くないかもしれないと、心が躍っている自分もいた。
「あらァ~? いつの間に随分仲良くなったのねぇ」
運転席から降りてきた信元様は、わたしを認めるなり嬉しそうに微笑んだ。そこへ、どこかへ行ったと思った天宮が戻ってくる。
「冷やかさないでくれよ、信元様」
「何言ってんのよ、もう~。こんなに可愛い子をお嫁にもらったんだから、もっと喜びなさいって!」
信元様が天宮の肩をバシバシと叩いても、いいから荷物運び入れないと朝になっちまうぞ、と天宮は素っ気ない様子で返す。何だか思春期の男の子とお母さんみたいな関係性に、少し微笑ましくなってくる。
あの伝説的な
わたしの部屋になる予定の場所に案内されて、次々に運び込まれる家具の配置を指示していく。何もなかった見知らぬ部屋が、徐々にわたしのもので埋まっていくのを見ていると、本当にここがわたしの家になるのだと実感せざるを得ない。わたしはここでやっていけるだろうか。そんな漠然とした不安が襲いくる。
そんなわたしの様子に気付いてか、全ての荷物を運び終わって、信元様が優しく声を掛けてくれた。
「
「ありがとうございます」
一度部屋に戻り、着替えやタオル、シャンプーなどを持って、信元様に言われた通りの場所へ行く。と、確かにそこは脱衣場になっていた。脱衣場は思っていたよりも広く、ちらっとお風呂場の扉を開けてみると、お風呂場も想像よりは随分広そうだった。
わたしの家は、いわゆる豪邸であることは理解していた。一般的な家はこんなに広く、大きくないこともわかっていた。信元様の家に着いて、実際に目にして、これが普通なのだろうと思った。
でも信元様の家はわたしが住み慣れた、木造の和風建築。部屋も畳で、家具を詰めてもあまり狭さを感じない。お風呂場だって、一人で入るのにあんなに広い必要はないと思っていたから、これくらいがちょうどいいと思える。
生活環境へのギャップは、今のところは悪い意味で捉えるようなことはない。それに少し安堵して、ほっと胸を撫でおろした。
髪を洗い、身体を洗い、湯船に浸かる。初めて入るはずの湯舟なのに、不思議と安心感がある。
彼と初めて出会ってからのこの一週間、ずっと落ち着かなかった。わたし自身のことだけじゃなくて、周りのこともたくさん考えた。父様のことも、お母さんのことも、
こんなことを言ってはいけないかもしれないけれど、少し吹っ切れたような気がする。これで一区切りついた。家のことは今更考えたって、どうにもならないのだ。考えても仕方がないこと。今はもう、自分のことだけ考えていればいい。自分がどうしたいかに従っていればいい。
――自由。
そんな言葉が脳裏を過る。別に
いや、本当は不自由さを薄々感じていたのだろう。だからあの時、天宮に連れ出されたわたしは、不覚にも気分が高揚してしまったのだろう。得も言われぬ解放感を感じていたのだろう。そしてこうして今も、家というしがらみがなくなり、“志岐郁夜”からただの“郁夜”になったわたしは、自由を感じている。
そんな自分が腹立たしい。情けない。志岐家の皆に申し訳ない。なんて薄情なのだろう、わたしは。そう思えて仕方がない。
そんな時、ふっとお風呂場の橙の灯りが消える。元々明かりが弱いなとは思っていたが、電球が切れたのだろうか。それとも
そういえば、この家は敷地に沿って結界が張られているらしく、弱い幽は入ってこれないようになっているらしいことに、ここに着いた時に気付いた。だから恐らく、幽の仕業ではないだろう。
すると、荒々しい足音が段々と近付いてきて、扉一枚を隔てた向こう側で止まった。
「十数えたら入るぞ」
天宮の声だ。入る、というのは電球を換えに、ということでいいのだろうか。まさか一緒に入ろうとなんてしてはいないだろう。何を考えているんだ、わたしは。
そのまま呆然と彼が数え終わるのを待ってしまい、真っ暗な中、扉が開け放たれた。
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