第3話 毒殺者の断末魔

「焼き尽くせ、『聖なる裁きの炎(ルクス・フラマ)』!」


 ヴァルトゥス司教の咆哮とともに、彼の掌から白熱した炎が噴き出した。

 それは単なる火炎ではない。魔力によって純化され、触れるものすべてを灰に帰す教皇庁の高等魔法だ。広場を埋める群衆から悲鳴が上がる。


 だが、その濁流のような炎がシンジに届く直前、銀光が空を裂いた。


「させるかッ!」


 フェリシアが、魔力を込めた長剣を振り抜いた。

 炎の奔流を真っ向から斬り裂き、彼女はシンジの前に盾となって立ち塞がる。剣先から火花が散り、彼女の白い頬が熱風に焼かれる。


「フェリシア、貴様……本気で教皇庁に逆らうつもりか!」

「逆らっているのは貴様だ、ヴァルトゥス! 騎士道に誓って、真実を隠蔽する刃を看過することはできん!」


 フェリシアの叫びに、聖典騎士たちも困惑し、足を止める。

 その膠着状態の中で、シンジは平然とした様子で、試験管の中の液体を振っていた。


「……司教様、やはり少し血圧が上がっているようですね。顔面の紅潮、そしてその魔力の乱れ。罪悪感からくるものか、あるいは計画を狂わされた憤怒か。どちらにせよ、人体は正直だ」


「貴様ぁ……!」


「無駄ですよ。あなたが魔法を放てば放つほど、証拠は積み上がる。……フェリシア分隊長、彼の放った炎の『色』をよく見てください」


 シンジに促され、フェリシアと周囲の騎士たちが司教の炎に目を凝らす。

 一見すれば聖なる白い炎。だが、その中心部には、微かに「エメラルドグリーン」の光が混じっていた。


「炎の中に、緑色の光が……?」

「炎色反応――特定の物質が燃える際に見せる固有の色です。司教様、あなたが今使っている魔力には、特殊な『触媒』が混ざっています。……それは、ガイウス閣下の心臓にこびりついていた残滓と、完全に一致する」


 シンジは、解剖したばかりのガイウスの心臓を、再びピンセットで指し示した。

 心臓の右心室、そこには先ほどの「溶ける魔石の針」が通った跡があり、周囲の組織が微かに変色していた。


「この毒針は、あなたの魔力によってのみ制御・溶解するよう調整されていた。あなたが今、殺意を持って魔力を練り上げたことで、遺体の中に残っていたあなたの『魔力の署名(シグネチャー)』が共鳴を始めたんですよ」


「デタラメだ! そんなことが起こるはずがない!」


「起こるんですよ、法医学(ほういがく)の世界では。あなたは魔法を『万能の力』だと思っているようですが、私にとっては『反応を残す物理現象』に過ぎない」


 シンジはさらに、先ほど取り出した試験管を高く掲げた。

 中にはガイウスの胃から採取した内容物と、シンジが道具箱から取り出した「ある試薬」が混ざっている。


「これが決定打です。……いいですか、皆さん。これは教皇庁が配った『聖水』の余りです。もしこれが清らかな水ならば、私の薬を混ぜても色は変わりません。しかし……」


 シンジが指で試験管の底を叩くと、無色透明だった液体が、一瞬にして禍々しい『紺碧色(こんぺきしょく)』へと変貌した。


「なっ……なんだ、その色は……!」

「紺青(プルシアンブルー)反応。シアン化合物が含まれている証拠です。ガイウス閣下は、首筋から毒を撃ち込まれる前に、この聖水を飲んで神経を麻痺させられていた。だから、暗殺者の接近にも気づけなかった」


 広場にどよめきが広がる。

 聖なる水が、毒の水だった。その事実は、司教の言葉よりも雄弁に、裏切りを証明していた。


「ヴァルトゥス司教……。聖水を用意したのは、あなただ。閣下にそれを手渡したのも、あなただ!」


 フェリシアの剣が、怒りに震える。

 司教は、もはや言い逃れができないことを悟ったのか、顔を醜く歪めて笑い出した。


「……ハ、ハハハハ! それがどうした! ガイウスは邪魔だったのだ! あのような平民上がりの男が、教皇庁の決定に口を挟むなどあってはならん! 私は、神の秩序を守ったのだ!」


 その告白は、広場に集まったすべての人々の耳に届いた。

 司教は狂ったように笑いながら、再び両手に魔力を集める。


「真実など、死体と共に焼いてしまえば存在しない! 死ね! すべて灰になれぇぇ!」


 最大火力の魔法が放たれようとした、その刹那。


「……医学的にアドバイスを。過度の興奮状態で、短時間に魔法を連続使用するのはお勧めしませんよ」


 シンジが冷静に呟いた。

 次の瞬間、司教の体が激しく痙攣し、練り上げられた魔力が霧散した。


「がっ、は……!? な……にが……」

「血管迷走神経反射、あるいは一時的な脳虚血。……専門用語はいいですね。要するに、高齢のあなたがカッとなって急に力を込めたせいで、脳に血がいかなくなっただけです」


 膝をつき、泡を吹いて倒れ込む司教。

 シンジはメスを鞘に収め、血のついた手袋をゆっくりと脱いだ。


「神の秩序か何か知りませんが。……あなたの体は、神よりも先に、私の『診断』に従った。それだけのことです」


 夕暮れ時。  司教とその配下たちは、駆けつけた近衛騎士団によって拘束され、連行されていった。

 広場には、まだ興奮冷めやらぬ群衆と、安置されたガイウスの遺体が残されていた。


 フェリシアは剣を収め、シンジの前に歩み寄った。彼女の鎧はすすけ、表情には深い疲労が滲んでいたが、その瞳は真っ直ぐにシンジを見つめていた。


「……シンジ殿。貴殿がいなければ、私たちは英雄を毒殺した犯人を、神として崇め続けるところだった」


「私は、ただ死体の声を代弁しただけです」


「死体の声、か。……貴殿の言った通りだったな。死体は嘘を吐かない。嘘を吐くのは、常に生きている人間だけだ」


 フェリシアは深々と頭を下げた。

 一国の騎士が、名もなき修復師に礼を尽くす。その異様な光景に、周囲の騎士たちも言葉を失う。


「礼を言わせてくれ。……そして、謝罪を。貴殿の技術を『不浄』と呼び、冒涜したのは、我々の無知ゆえだ」


「構いませんよ。慣れていますから」


 シンジは道具箱を閉じ、肩に担いだ。


「さて。私の仕事は終わりました。死体は修復しておきましたから、あとはしかるべき場所に埋葬してあげてください。……解剖の跡は、綺麗に縫合してあります。服を着せれば、家族にも分からないはずだ」


 立ち去ろうとするシンジの背中に、フェリシアが声をかけた。


「待ってくれ! ……貴殿ほどの知恵、地下室に眠らせておくにはあまりに惜しい。王立騎士団に……いや、この国には、貴殿のような『検死官』が必要だ」


 シンジは足を止め、振り返らずに答えた。


「死体を切り刻む男ですよ。嫌われるのが関の山だ」


「それでもだ! 私は、今日ほど真実の尊さを知ったことはない。……お願いだ。これからも、私の隣で『死者の声』を聴かせてはくれないか?」


 シンジは空を見上げた。

 異世界の夕焼けは、日本で見たものと同じ、血のような赤色をしていた。


「……給料は、高いんでしょうね?」


 その言葉に、フェリシアは一瞬呆気に取られ、やがて今日初めての柔らかな笑みを浮かべた。


「ああ。王国一の『遺体修復料』を約束しよう」


 こうして、魔法が支配する世界に、一人の「法医学者」が誕生した。

 それは、神と魔法の権威が揺らぎ始め、論理と証拠が真実を照らす時代の幕開けでもあった。

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