第三話 静岡ヘルシーウインナー
「いや、だからこそいいんだ。ぜひ我が社に来てほしい」
「シンデレラが何の役に立つというの?」
大田監督は一息入れて話しはじめた。
「マラソンは続けたいかね?」
「そりゃあ、できることなら……」
「君の実力はわが社で通用する。ぜひ、我が社へ就職してもらえないだろうか」
「どうせ貧乏人にコネなんてないしね。でも、これだけははっきりさせて。私は兄のように同情心だけで雇われたくはないの。私にどんな才能があるというの?」
「君のお兄さんは、確かボウリングの日本チャンピオンだったね」
監督は分厚い黒革のバッグから資料を取り出した。
角の染料は擦り切れ、革には何度も手に取られた柔らかさが残っている。
書類のせいで、パンパンに膨らんでいた。
「そう。兄が高校を卒業して最初に勤めた金属加工の会社が倒産の危機に見舞われて、どうしても一人辞めなくてはならなくなったの。兄はそのとき、自ら進んで退職したわ。
たった一年しか在職しなかった会社を守るために。でも、捨てる神ばかりではなかった。
パチンコの“アルハン”が兄を救ってくれたの。そうしたら兄の才能が開花して、今では日本チャンピオンよ。でも、それはお兄さんに才能があったから。もともと才能を見込まれて就職したわけではないわ」
「だが、今ではれっきとした日本チャンピオンじゃないか」
「運と偶然が重なっただけよ。私には一番肝心な才能がないわ!」
「君は本当に、実力で負けたと思っているのか?……ちょうどいい。担任の先生にも見てもらうとしよう」
大田監督は革のバッグから一本のビデオテープを取り出すと、進路指導室のビデオデッキにセットした。
「シンデレラ誕生の瞬間から現在に至るまでのレースで、二十キロ、三十キロの給水の場面だけを編集したものだ」
ビデオが再生されると、モニターには雅が給水に失敗する直前のシーンが映し出された。
「ほら、ここをよく見て。赤い帽子をかぶった観客が三人揃っているだろう。この三人は、君のデビュー戦のとき、あまりに速いピッチに驚いた他チームの監督が、ペースブレイカーに指示を出すために送り込んだスタッフの一員なんだ。三人とも手が下がっているし、応援もしていない。そのうえ、旗すら持っていないだろう。このあと、君が給水所に近づくと……」
「あっ……」
「急に二人の選手が、かなり無理なピッチで君に追いただろう。しかも右側からコップが取れないように塞ぐような形で駆け抜けて行った」
「そう言われてみれば……」
「これは次のレースだ。今回も、二十キロ地点、三十キロ地点ともに、給水所で二人の選手が覆いかぶさるように走り込んできて、君は給水できなかった」
「私は、自分が給水に失敗したのは、ただ『運が悪かった』からだと思って……。だから逆に『負けてたまるか』と、むきになって突っ走ったのだけれど」
「次のレースも、その次のレースもだ。しかも、君をブロックした選手は特定の所属ではない。その上、全員が三十五キロ手前でリタイアしている」
「私と同じで、ペースを忘れて飛ばしすぎたのではないかしら?」
「日本のどこに、三十五キロまでを“シンデレラ”より速く走れる選手がいると思う?」
「それでは……私は実力で負けたのではなく、ペースブレイカーたちの妨害で負けたっていうの?」
「その通りだ。では聞くが女子のマラソンに男性の選手がペースメーカーとして走るのはルール違反かな」
「いいえ、違反ではありません」
「水泳の競技で優勝候補が波の影響を受けにくいプールの中央のコースを割り振られるのは卑怯(ひきょう)かな? サッカーの試合で格下のチームが強豪の選手に軽い接触を受けたときに大袈裟(おおげさ)にアピールするのはずるい事か?
メジャーリーグの試合で監督からバントの指示を出されていたバッターがホームランを打ったところ、途中で降板させられ、その上しばらく試合に出場できなくなったのは理不尽か?」
次から次へとまくし立てる担任教師に雅は違和感を覚え、問いかけた。
「いつもの先生らしくないわ、『スポーツマンシップに則(のっと)り』が口癖だったのに……」
「高校生までは、な」
「……なぜ教えてくれなかったの?」
「もし教えていたら?」
「邪魔した連中をぶん殴りに行ってたわ」
「ほらな、だから教えなかったんだ」
「先生、この子に中学生や高校生のかわいいスポーツと、プロスポーツの違いを教えていなかったのですか?」
「せめて高校までは、健全なスポーツを教えたかったんだよ」
「では、私から説明しましょう」
大田監督が放った次の一言は、雅の心に深く刻まれることとなった。
「マラソン競技においては、優勝者はレースが始まる前に決まっている」
「え……何を言っているの?」
改訂新版 ペース・ブレイカー 草薙 雅のマラソン物語 ハイヒール オオイシ @A2175
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