偽りの軍医少尉

夕凪

第1話 泥濘のバランスシート

その日、俺が最後にしていた仕事は、不渡り寸前の取引先の資産査定だった。

 

 深夜二時、静まり返ったオフィス。

 

 エクセルの白い光が網膜に刺さり、意識がふっと遠のく。

 

(……この数字、合わない。どこかで、巨大な損失が隠されているはずだ……)

 

 次に目を開けたとき、俺の口内には泥の味が広がっていた。

 

「……軍医少尉アシステンツアルツ殿! 起きてください、前進です!」

 

 横面を叩かれた衝撃で顔を上げると、そこには灰色の軍服を泥で汚した伍長が立っていた。

 

 耳を劈くのは、空調の唸りではなく、秋の湿った大気を震わせる重砲の咆哮。

 

 一九三八年十月。チェコ・ズデーテン地方。

 

 どうやら俺は、ドイツ国防軍という「巨大なブラック企業」の中間管理職として、この狂った決算期に放り込まれたらしい。

 

「……了解ヤヴォール。すぐに資産いのちの優先順位を付ける。無駄な投資くすりはさせないぞ」

 

 口から出たのは、驚くほど流暢なドイツ語だった。

 

 それだけではない。

 

 遠くから風に乗って聞こえてくる現地人の悲鳴、混乱した英語の怒号……。

 

 それらすべてが、映画の字幕のように鮮明な意味を持って脳内に流れ込んでくる。

 

 現代の日本で、趣味と実務の境界線で培った「多言語能力」が、この戦場では異常なまでのチート能力として覚醒していた。

 

 だが、俺は心に決めていた。

 

 ドイツ語以外は、あえて「カタコト」で通すと。

 

 有能すぎる社員は、往々にして政治の泥沼に引きずり込まれ、使い潰される。

 

 それは経理マンとしての鉄則であり、自分を守るためのリスク管理だ。

 

 進駐の混乱が続く夜。

 

 設営されたばかりの救護所に、一台の軍用車両が滑り込んできた。

 

 運ばれてきたのは、自動車事故を起こしたというイギリスの外交観測員、アーサー・ハミルトン。

 

 軍にとって「機密の塊」が転がり込んできた瞬間だった。

 

 ハミルトンは俺の襟章を掴むと、意識が混濁する中で必死に何かを囁いた。

 

『……Please……the blue envelope……burn it……』

(……頼む……青い封筒を……燃やしてくれ……)

 

 周囲の看護兵たちには、それがただの聞き取れない「うめき声」にしか聞こえていない。

 

 俺は聴診器を当て、彼の胸元を検めながら、わざとたどたどしい英語を口にした。

 

「You……okay? ……Pain, where?(あんた……大丈夫か? ……痛み、どこだ?)」

 

 ハミルトンが俺の「拙い」言葉に安心し、一瞬だけ力を抜いた隙だった。

 

 俺は彼の上着の内ポケットから「青い封筒」を抜き取り、自分の医療鞄の二重底へと滑り込ませた。

 

 翌朝、夜明け前の救護所に、嫌な金属音があたりを支配した。

 

 胸にプレートを下げた野戦憲兵フェルトゲンダルメリーの曹長が、部下を引き連れて踏み込んできたのだ。

 

 兵士たちが「鎖付きの番犬」と恐れる、軍の警察である。

 

「軍医少尉殿。お忙しいところ恐縮ですが、少々耳を貸していただきたい」

 

 階級上は俺が上だが、曹長の目は「若造の医者などいつでも握りつぶせる」と冷酷に語っている。

 

「昨夜のイギリス人の所持品を検品チェックさせてもらう。情報部アプヴェーアが来る前に、我々が『保全』しておく必要があるんでな。……鞄は? 封筒のようなものはなかったか?」

 

 俺はわざと困惑したような顔を作り、カタコトの現地語を混ぜて独り言を装った。

 

「……ワタシ、シラナイ。……He……no bag. ……鞄、無かったハズだ……」

 

 曹長が、品定めするように俺を鋭く睨む。

 

「……奴が何か、重要なことを口走らなかったか? 我々の耳には入らないような機密を」

 

「……ああ、聞いたよ。英語で『Water』、チェコ語で『助けて《Pomoc》』だ」

 

 俺は事務的に、ハミルトンのカルテを曹長に突き出した。

 

 そしてドイツ語で、理路整然と「医学的に彼は喋れる状態ではない」と断定する。

 

 監査法人をロジックで突っぱねる時と同じ手口だ。

 

 曹長は慇懃無礼な敬礼を残し、不服そうに去っていった。

 

 静寂が戻った救護所で、俺は医療鞄の重みを確かめた。

 

 中にある「青い封筒」は、この進駐を巡る「国家の裏帳簿」に他ならない。

 

(……やれやれ。俺はただの軍医だ。なのに、どうしてこんな厄介な不良債権を抱え込んでるんだか)

 

 現代日本人としての良心は「この男を助けたい」と言い、経理マンとしての理性が「この封筒をどう使えば、自分の生存率という名の純利益を最大化できるか」を冷酷に計算し始めていた。

 

 戦場という名の、破綻した組織。

 

 一円単位、いや、一人単位の命を救うための「帳簿操作」が、今始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る