第6話 宣戦布告と白の裏切り
広間が揺れた。
伝令が告げた一言で、ざわめきが音ごと消える。
「――オセリア軍、国境を突破!目的はリーフィス殿下の奪還と見られます!」
視線が一斉に、エドウィンの隣の“白”へと注がれる。息を呑む気配だけが残った。
エドウィンはリーフィスの手を取るように、指先だけで彼女の脈をなぞる。
黒い瞳が近づき、肩越しに囁いた。
「どうする、鍵よ。奴はお前を救いに来た。生かすか、殺すか――選べ。」
リーフィスは表情を動かさない。
ただ、エドウィンの腕へ添えた手に、そっと力を込める。
「……彼を、生かしてください。」
静かで、揺れない声。
エドウィンが薄く笑う。
「彼を殺しても、貴方の呪いは解けない。生かせば、彼は貴方を討ちに来る。貴方が死ねば、世界は闇に落ちる。
――それが、貴方の理でしょう?」
「賢明だ。」
エドウィンは彼女の顎先を軽く持ち上げた。
「いいか、鍵よ。お前が私を裏切らない限り、“お前の愛した男”は生きる。」
リーフィスのまつげが震える。
深く目を閉じたその裏で、彼女の心は悲鳴を上げていた。
ソレイユに真実を伝えて逃げたい。
でも、私の魔力はエドウィンの命を繋ぐ鎖であり、世界を支える最後の楔。
ソレイユを救うための嘘なら――私は、咲く。
リーフィスはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、静かな光だけが宿っている。
「……分かりました。私が――偽りの華を演じましょう。」
エドウィンの唇が満足げに歪んだところで、場面は静かに閉じる。
荒野。岩が無秩序に転がる国境沿い。
灰色の風が砂を巻き上げ、ナスリーの漆黒の軍勢が静かに背後に並ぶ。
リーフィスはエドウィンの隣に立っていた。
闇の衣に包まれた身体からは、白い髪だけが冷たく光を放つ。
視線の先、馬上に現れたのは――オリセア騎士団長、ソレイユ。
やつれた顔。左腕には深い火傷の跡。
だが瞳だけは変わらない。かつての優しさと、今は鋼のような怒りが宿っていた。
馬を降り、足音を岩に響かせながら近づいてくるソレイユ。
剣は鞘に納められ、全身から炎の魔力が立ち昇っていた。
「リーフィス!無事だったのか!すぐに城に戻るぞ。お前の無実を――」
「黙れ、騎士団長。」
リーフィスの声は冷たく、低く。
エドウィンの闇の魔力が、言葉の一つ一つに重みを与えた。
「リーフィス……? 何を……」
「私はもう、オリセアの王族ではない。あなたも、私の名を軽々しく呼ばないで。」
そっとエドウィンに寄り添う。
その仕草は、見る者には“愛情”そのものに映るだろう。
「私が価値を認めるのは、力と、それを持つ方だけ。あなたの国には、私を理解する者はいなかった。」
ソレイユの顔色が、徐々に失われる。
「嘘だ……! お前は……お前はそんなことを――!」
「脅されているのだろう!? 離れろ、リーフィス!」
炎の魔力が大地を焦がす。
剣に手をかけるソレイユ。
リーフィスは息を整え、魔力を集中させる。
闇と自らの白の力を混ぜ合わせ、最後の言葉を吐き出す。
「愚かな騎士団長。裏切られたと気づくこともなく、利用され続けた哀れな男。さあ、この宣戦布告を持ち帰りなさい。オリセアの滅びを――待ちなさい。」
凍てつくように冷たい言葉を突きつける。
ソレイユは膝を折り、声もなく地面に崩れ落ちた。
エドウィンはリーフィスを静かに見下ろした。
「……やるではないか。」
だが次の瞬間、エドウィンの身体が痙攣し、力を失った。
呪いの患部から黒い霧が噴き出し、闇の兵士たちがざわめいた。
「王……!?」
苦悶の表情を浮かべるエドウィン。
理性が闇の力に揺さぶられている。
「鍵よ……! 今すぐ治せ!」
リーフィスは理解した。
これは試練――嘘を選んだ自分が、極限の状況でも王を救えるかの、最後の確認。
迷わず右手を胸に押し当てる。
白い魔力が溢れ、闇と呪いを鎮め、暴走を封じる。
ソレイユは地に伏したまま、すべてを目撃していた。
裏切りに見えたその行為が、彼の命を救ったのだ。
数秒後、エドウィンは意識を取り戻し、リーフィスを突き放す。
「……下がれ。」
軍に命じる。
「騎士団長を解放せよ。ただし王へ伝えろ――これは宣戦布告だ。」
一週間後。
ナスリー軍はオリセア国境を越える。
漆黒の馬車の中、リーフィスは故国の森を見る。
闇の軍勢が踏み込むたび、大地は黒く、静かに死んでいく。
(私は――自らの故国を滅ぼす、敵の王の隣にいる)
夕刻、王都目前。
エドウィンは馬車から降り、リーフィスを伴い、最前線へ出た。
城壁の上に立つは、父・ケイエール国王と、姉・シャルル。
「エドウィン! 我が第二王女をどこへやった!」
国王の声は怒りに震える。
「ああ、彼女か。」
エドウィンは笑みを浮かべ、リーフィスを前に押し出す。
国王の顔が変わる。
怒りから驚愕、そして絶望へ。
「リーフィス……! なぜ魔王の隣に……!」
「父上。」
リーフィスの声は、感情を押し殺した冷たさだけを帯びていた。
「ここにおります。不吉として捨てられた娘が。」
絶句する国王。
そのとき――炎が飛んだ。
シャルルの烈火の炎の魔力が襲いかかる。
「裏切り者め! 魔王に魂を売ったのか!」
エドウィンは微動だにせず、リーフィスを庇った。
「姉君、その炎は届きません。」
烈火の炎は闇の渦が飲み込み、最も簡単に消えてしまう。
「裏切り者は、今や私の一部。そして国も、同じ運命を辿る。」
リーフィスは、闇に飲み込まれる故国と怒りの肉親を前に、
“偽りの華”の役割を、最後まで演じきった。
オリセア王都を護っていた赤い炎の結界が、ナスリー軍の漆黒の魔力に飲み込まれたのは、宣戦布告から三日後だった。
丘の上。
リーフィスはエドウィンの傍らに立ち、崩れゆく故国を見下ろしていた。
燃える結界は、黒い魔力に侵され、灰色の煙となって空へ消えていく。
「美しいな。」
エドウィンの声には喜びも興奮もなく、ただ静かに、客観的に力の均衡を眺める冷徹さだけがあった。
リーフィスの胸は張り裂けそうだったが、涙は出ない。
五年間、塔で流し尽くした感情はもう、どこにも残っていなかった。
立ち昇る煙は、彼女の故国への執着が完全に消えたことを象徴していた。
城門が破壊され、闇の軍勢が雪崩れ込む。
遠くで聞こえる人々の悲鳴。
かつて守りたいと願った全てが、今、彼女の守るべき男によって崩れ去る現実。
「これで、お前の故国は終わった。帰る場所は、どこにもない。」
エドウィンが、リーフィスの手首をそっと掴む。冷たく硬いその手の温度が、彼女の肌を震わせた。
「私の居場所は、もう既に無かったわ。そして、貴方も逃げられない。命は、私の力に懸かっているのだから。」
リーフィスは、あえて冷徹に言い返す。
憎悪と義務――その二つの感情だけが、彼女をこの場に立たせていた。
陥落から半日後。王城の中庭。
王族は捕縛され、ケイエール国王は土埃にまみれ膝をつく。
母アリス王妃は、現実を受け入れられず虚ろな瞳を見開く。
そして、鎖に繋がれた姉・シャルル。
煤けた髪、破れた衣服。だが瞳だけは、なお炎のように燃え盛っていた。
エドウィンはリーフィスを伴い、捕らわれた王族たちの前に立つ。
「国王ケイエール。愚かな戦争を起こした報いを、国ごと受け取るがいい。」
闇の兵士たちが剣を向ける。
「待って。」
リーフィスは一歩前に出た。鎖に繋がれたシャルルと正面で向き合う。
「リーフィス…!なぜ……!?貴様は生かされた恩を仇で返した!」
シャルルの声は怒りと裏切りで震えていた。
シャルルの言う、恩。それが今でも何かわからなくなる時がある。
「姉上、貴方は忘れたの?私という『白』は、この国にとって最初から不吉で、不要な存在だった。私の居場所を奪った口実に過ぎない。」
「黙れ!塔に幽閉したのは、貴様の力が、炎の国の血を穢すと恐れたからだ!」
シャルルの言葉は、五年間答えの出なかった問いへの、残酷な答えだった。
リーフィスは微笑む。冷たく、悲しい氷のような微笑み。
「ありがとう、姉上。貴方たち王族が守りたかったのは、国ではなく、体裁と炎という名のプライドだった。そのプライドが、この国を滅ぼしたのよ。」
リーフィスの言葉に、エドウィンは満足そうに頷いた。
「見事だ。恨みは、清算されたようだな、鍵よ。」
彼はシャルルの目の前でリーフィスを抱き寄せる。
「お前の妹は、私を選んだ。そして今、彼女は私の傍で、この世界を動かす存在となる。
お前の運命は、この裏切り者の手に委ねよう。」
エドウィンは、近くに落ちていた炎の騎士の剣を拾い上げ、リーフィスの足元に投げた。
「殺すか、見逃すか。判断しろ、リーフィス。この女は、塔に幽閉した責任者の一人だ。」
震える手で剣を握るリーフィス。
剣は熱を帯び、純白の魔力とは違う灼熱さを放っていた。
シャルルは怯えず、真っ直ぐに視線を返す。
「やれるものならやってみろ、裏切り者。炎の国の血は、穢れた貴様には渡さない!」
リーフィスは剣を振るう――だが、対象は姉ではなく、鎖。
一閃のもと、鎖は闇の兵士の目の前で落ちた。
「…私に、貴方を殺す価値はないわ、姉上。」
剣を投げ捨て、リーフィスは続ける。
「貴方たちが守りたかった炎の誇りは、心に閉じ込めておけばいい。生きなさい。そして、守れなかった国が、どう変わるか、最後まで見届けるのよ。」
リーフィスの言葉は、最大の罰だった。生き延び、自分を否定した妹が敵の王の隣で世界を動かす姿を、見続けるしかない。
エドウィンは微かに瞳を細めた。
予想外の選択だったが、咎めはしない。
「王と王妃は幽閉。シャルル王女は軟禁。」
「そして、鍵よ。私の呪いは、まだ消えてはいない。」
リーフィスは、エドウィンの冷たい手に自分の手を重ねた。
炎の国は終わり、彼女は闇の王国の奥深くへと足を踏み入れた。
もはや、振り返ることはできないのだ。
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