第4話 偽りの華
目を開けた瞬間——世界は闇に沈んでいた。
最後の記憶は、ソレイユの胸に手を当てた時の、あの全身が抜け落ちるような感覚。
そして、闇の王に担がれた時に触れた、氷のような体温。
「……っ、ここは……?」
石造りの壁。柔らかな毛皮。青白い魔石ランプ。
どこかの城室だ。
オリセアの塔とは比べものにならないほど暖かい。
だが空気は重い。深い闇が肌にまとわりつく。
——この魔力。まさか。
リーフィスは息を呑んだ。
ここは、闇の国ナスリー。
その瞬間。音もなく扉が開く。
黒い鎧に身を固めた騎士が先に入り、その影が割れるように——
ゆっくりと、漆黒の髪の男が歩み出た。
闇の王、ハリヤー・エドウィン。
彼が部屋に一歩踏み入れただけで、空間の色が濃くなる。
黄金の瞳は感情を見せず、それでいて全てを見透かす深さがあった。
「……意識が戻ったか、鍵よ。」
低い声が落ちた瞬間、あの時掴まれた胸倉の感触が蘇る。
反射的に身体が強張る。
「……ソレイユは?」
掠れた声。
闇の王は椅子を引き、当然のように彼女の正面へ座った。
「命には関わるまい。お前が魔力を注いだゆえな。」
「っ……!」
安堵と、同時に煮え立つ怒り。
「……卑劣だわ。何の権利があって私を——」
「権利?」
エドウィンはかすかに笑った。
「力こそが権利だ。そして私は、お前を必要としている。」
「私はただの“無色”よ。どの国にも歓迎されない——」
「ナスリーでは違う。」
その目が、彼女の白髪の先を捉える。
「オリセアが『不吉』と呼ぶそれを、我々は『希望』と呼ぶ。」
言葉と同時に、彼の右手の甲が淡く光った。
黒い稲妻のような紋様——あのソレイユを蝕んだ闇と同じ。
「……これは?」
「呪いだ。」
エドウィンは手を机に置き、見せつけるように言う。
「この呪いは私の魔力が強くなるほど、肉体も理性も喰らう。いずれ私は、世界を破滅させる獣へ堕ちるだろう。」
思わず息を呑んだ。
闇の王の、あまりに孤独な告白。
「そして、この呪いを解けるのはただ一つ——
光を宿した命の源。炎にも闇にも属さぬ純白の力。」
彼の黄金の瞳が、まっすぐリーフィスを射抜いた。
「この世界でそれを持つのは……白の治癒を操るお前だけだ、リーフィス。」
闇の王に名前を呼ばれ、胸がひどく鳴った。
緊張による動悸が治ることなく一層酷くなる。
「……まさか、私が……貴方を治す?」
「そうだ。」
エドウィンは立ち上がると、彼女を見下ろし影を落とす。
「お前は、私の呪いを抑える鍵。世界を滅ぼすか、救うかは……お前にかかっている。」
静かに手が伸び、リーフィスの白い髪を一房、指に取る。
その動きは支配的でありながら、どこか切実な渇望を帯びていた。
「拒否権はない、鍵よ。今この時から、お前は……この闇の王国の“偽りの華”だ。」
彼の声は熱くもないのに、逃げ場を許さない力を持っていた。
「私が呪いに喰われれば、この世は終わる。
——その闇を止められるのは、お前だけだ。」
リーフィスの心臓が、激しく軋んだ。
選択などもう、どこにもなかった。
——
石造りの部屋に戻されてから、三日が経った。
窓も時の流れもない空間で、リーフィスは隅にうずくまり、静かに体力の回復だけを繰り返していた。
衛兵は一人もつけられていない。
それでも、この部屋から逃げ出すという選択肢は、そもそも存在しなかった。
――闇の王の魔力そのものが、部屋の空気を私を逃さない鎖にしている。
そう、肌が勝手に理解する。
コン、コン。
扉が叩かれると、すぐに開いた。
初日に私をここまで案内した、血の気の薄い壮年の側近が立っていた。
「リーフィス王女。王がお待ちです。」
「……わかったわ。」
「王女」と呼ぶ声に、露骨な軽蔑が混ざる。
それでも、反論するだけの魔力も気力も残っていなかった。
リーフィスは立ち上がり、側近の後を歩いていく。
通されたのは玉座の間ではなく、エドウィンの私室だった。
豪奢とは無縁の、黒と青の死んだような空間。
漆黒の木材、青黒い大理石。光を吸い込むような冷たい部屋。
中央に置かれた重い寝台の隣――
薄手のシャツ姿で、エドウィンが静かに腰掛けていた。
逞しい右腕の袖は肘まで捲られ、呪いが露わになっている。
稲妻状の黒い線。
青黒く腐敗したような肌。
触れずとも伝わる、熱と不快な闇の気配。
……前より酷い。
「座れ。」
寝台の端を、指で軽く叩いた。
その位置は、リーフィスが彼の腕に触れるのに最適な距離――逃げ道はない。
「触れろ。
呪いが、待っている。」
リーフィスは一瞬だけ躊躇した。
魔王を助けたくないわけではない。
助けなければ、世界が終わるから。
ただ――前回ソレイユを治した時の、全魔力を持っていかれるような消耗を思い出したのだ。
そして、この部屋を満たす圧倒的な闇の濃度。
それに自分の身体が耐えられるか。
それを思うとどうしても躊躇してしまう。
そんな私を見透かしたようにエドウィンは続ける。
「躊躇するな。お前の力は、私を殺す力ではないはずだ。」
「……そうね。」
深呼吸し、寝台に腰を下ろす。
白く細い左手を伸ばし――
エドウィンの青黒い右腕に触れた。
その瞬間。
バチィッ!!
雷のような衝撃がリーフィスを貫く。
「っ……!」
白の治癒と、漆黒の闇が激しく拒絶し合う。
体温が一気に奪われ、魔力は氷の中に沈められたように冷えていく。
呻いたのはエドウィンではなく、リーフィスだった。
内側で互いの力が衝突し、“異物を排除しよう” と魂がぶつかり合っているような痛み。
それでも、逃げない。
逃げられない。
リーフィスは歯を食いしばり、震える手に白の魔力を込めた。
優しく、だが絶対に折れない意志で。
その瞬間、光と闇が触れ合った地点から――
ふわり、と白い霧が立ち昇る。
まるで呪いが煙となって剥がれ落ちていくように。
皮膚の表面で、細かく爆ぜる音がした。
エドウィンは表情を変えなかったが、首筋を一筋だけ汗が滑り落ちた。
それが、彼の痛みの深さを雄弁に語っていた。
「私の治癒魔力は、生命力を糧とするの。あなたの闇が強すぎる……このままでは、私が先に枯れるわ。」
エドウィンは無言で、リーフィスの手首を掴む。
その指先から、闇が逆流してくる――血の中へ侵食するように。
「お前が枯れる前に、治せ。それが、お前の義務だ。」
「……っ、あなた……!」
生命力すら搾り取る勢いだ。
その冷酷さに背筋が凍る。
リーフィスは目を閉じた。
視界を奪うことで、彼の闇も、冷たい瞳も遮断するように。
「……いいわ。望み通りにしてあげる。」
覚悟とともに、魔力の出力を最大まで上げた。
ぶわっ――!
瞬間、彼女から溢れた純白の光が、
エドウィンの腕を――
いや、部屋そのものを照らし尽くした。
「ぐっ……!」
抑え付けられたような低い呻きが、ついに闇の王の喉から漏れた。
白光に照らされた呪いの斑紋が揺らぎ、
まるで黒い墨が水に溶けていくように、じわりと薄れていく。
リーフィスははっきりと感じていた。
自分の血の気が――そのまま魔力となって
エドウィンの身体へ吸い込まれていく感覚を。
……ソレイユの時より、ずっと……重い……!
止めなきゃ――そう思った瞬間、闇の患部から逆流する力が、白を深く沈め、離さない。
意識が霞みかける、その刹那。
エドウィンが、強く、冷たく、彼女の手を握り直した。
「……もういい。離せ。」
彼の指が、強制的にリーフィスの手を呪いから引き剥がした。
「っ……はあ、はあ……!」
膝が崩れ落ちそうになる。
全身が空洞になったような虚脱感。
数分の治療で、数日分の疲労が流れ込んだようだった。
エドウィンは右腕を見つめる。
そこに刻まれていた黒の斑紋は、確かに薄れている。
「……効く。本当に、効くのだな。」
彼は目を閉じ、深く息を吐いた。
その横顔に、一瞬――初めて見る“弱さ”がのぞいた。
呪縛から解放された安堵の色。
魔王ではなく、ただの青年の表情。
それが却って、リーフィスの目には恐ろしく映った。
すぐに、彼はその表情を覆い隠すように目を開く。
「お前は、私の命だ。私がお前を生かす。そしてお前は、私を治し続ける。」
闇の王の仮面が戻る。
「これが、お前と私の契約だ。鍵よ――覚悟しておけ。」
頷く力さえ残っていない。
ただ、彼女の魔力が彼の命を繋ぎ、
彼の命が彼女を縛ったのだという実感だけが、胸に沈んだ。
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