第3話 朝湯はその日の難逃れ
眠っていた、と思う。
目は閉じていたし、意識も途切れていた。
けれど、妙に頭だけははっきりしていた。
湯気の中に立っている。
昨夜、身を寄せていた岩陰でもなければ、谷底でもない。
足元は白く、輪郭の曖昧な空間。
(……なんだ、これ)
そう思った瞬間、視界の端に文字が浮かんだ。
浮かんだ、というより、
最初からそこにあったものに気づいた、という感覚に近い。
---
【条件達成】
【新しい温泉を体験しました】
【レベルアップ!! レベルが1になりました】
【固有スキルを獲得しました】
【固有スキル:入浴体験】
---
「…………」
一拍。
「いやいやいやいや」
思わず声が出た。
(夢だろ。
さすがに)
文言が、あまりにもそれっぽい。
ゲームそのものだ。
レベル。
固有スキル。
しかも「入浴体験」。
(弱そうにもほどがあるだろ)
そう思ったところで、
文字は湯気に溶けるように消えた。
同時に、意識がすとんと落ちる。
---
次に目を開けたとき、
僕は眠りについたあの岩陰にいた。
朝だ。
谷の空気は冷え切っていて、
肌を撫でる風も相変わらず容赦がない。
なのに。
「……あれ?」
声が出たのは、寒さを感じなかったからだ。
いや、正確に言えば寒い。
ただ——
体の芯が、妙に温かい。
(……おかしいな)
昨夜の状況を思い出す。
装備なし。
野営スキルなし。
極端な寒暖差。
どう考えても、体調を崩して目覚めるコースだ。
最悪、目覚めない可能性すらあった。
なのに。
指先を動かす。
かじかんでいない。
膝を曲げる。
軋まない。
(……回復、早すぎないか?)
立ち上がって、軽く伸びをする。
筋肉痛も、だるさもない。
むしろ——
「……昨日より、調子いい気がするんだけど」
思わず独り言が漏れた。
温泉YouTuberとしての経験上、これは異常だ。
湯治は確かに効く。
だが、ここまで即効性が出るものじゃない。
視線が、自然とあの湯へ向かう。
朝日を受けて、白い湯気を立ち上らせる温泉。
見た目は、昨日と何も変わらない。
(……成分が、強いのか?)
それなら納得できる。
いや、できないが、まだ現実的だ。
だが——
(それにしても、限度ってものがある)
体の内側に、何かが“残っている”感覚。
血が巡るたび、温かさが広がる。
説明するなら、
エンジンをかけっぱなしにしている車、みたいな感じだ。
そのときだった。
湯気の向こう側。
白の中に、
ほんのり青みがかったものが混じっているのに気づいた。
「……?」
目を凝らす。
白い湯気の流れに沿って、
淡く、頼りない青い光の帯が、
こちらに流れてくるように見える。
(……気のせいか?)
そう思った瞬間、
その光は、自分の胸元のあたりで
ふっと溶けるように消えた。
同時に、
胸の奥が、わずかに温かくなる。
(……今の、なんだ?)
もう一度、湯気を見る。
だが、青い光は見えない。
(見間違いか。
朝だし)
そう結論づけようとして、
違和感を振り払う。
考えすぎだ。
昨夜の夢といい、
脳が変な方向に引っ張られているだけだろう。
(……あとで考えよう)
今は、それどころじゃない。
周囲が、静かすぎる。
鳥の声が聞こえない。
虫の羽音もしない。
代わりに——
ガサリ。
草の擦れる音がした。
反射的に、体が強張った。
風じゃない。
動物にしては、重い。
(……鹿?
この岩場に鹿がくるのか?)
そう思って振り返った瞬間、
背中がぞわりと粟立った。
黒い影。
低く、地面すれすれに構えた四足。
体毛は濡れたように光り、目だけが、やけに白い。
(……犬?)
違う。
牙が、長すぎる。
口の端から覗くそれは、噛むためというより、
引き裂くための形をしていた。
呼吸が、止まる。
(……クマじゃない。
狼でもない)
じゃあ、なんだ。
理屈より先に体が理解してしまった。
(——逃げ遅れた)
足が、動かない。
その謎の生物は、低く唸った。
唸り声なのに、空気が震える。
威嚇、というより——
捕食前の確認みたいな音だった。
(……冗談だろ)
心臓が、嫌な速さで鳴り始める。
距離は、十メートルもない。
走っても、たぶん追いつかれる。
あたりは見渡す限りの岩。岩。岩。
叫んでも、誰も来ないだろう。
(……俺、昨日は凍死しかけて、今日はこれか)
温泉の湯気が、やけに遠く見えた。
次の瞬間。
謎の生物が、跳んだ。
低く、速く、一直線に。
(——終わった)
そう思った、刹那。
風が裂けた。
正確には空気が押しのけられた。
視界の端で、銀色の軌跡が走る。
鈍い音。
肉を断つ音。
魔物の体が、横に吹き飛んだ。
「……っ?」
遅れて、地面に叩きつけられる音。
何が起きたのか、
一瞬、理解できなかった。
視線を上げる。
そこに立っていたのは——
胸元の空いた革鎧の女性だった。
剣を一振りした姿勢のまま、
地面に転がる魔物を見下ろしている。
体勢が、崩れていない。
息も、乱れていない。
(……え?)
謎の生物は、もう動かなかった。
断面が、あまりにも綺麗だ。
(……一撃?)
革鎧の女性が、こちらを見た。
「……怪我は?」
声は低く、落ち着いていた。
あまりにも現実的で、逆に現実感がなかった。
「……い、いえ」
喉がようやく動いた。
「……助かりました」
自分の声が、少し遅れて聞こえる。
彼女は、短く頷いただけだった。
「不用意に近づくな」
視線が、僕の背後——温泉の方へ向く。
「この辺りは魔物の巡回路だ」
(……巡回?)
そんな言葉、普通に出てくる?
胸の奥が、じわっと冷えた。
魔物。
一撃で倒す剣。
巡回路。
子供の頃に遊んだゲームが、頭をよぎる。
剣と魔法。
HPとMP。
(……勇者と魔王が出てくるやつ)
喉が鳴った。
(いやいやいや。
現実逃避にもほどがある)
脳が、必死にブレーキをかける。
(落ち着け。
これは、たまたま設定が濃い人たちだ)
コスプレ。
撮影。
何かのイベント。
そう思おうとした。
だが。
地面に転がる“それ”は、
どう見ても、CGでも着ぐるみでもなかった。
血の匂いが、現実すぎる。
(……あれ?)
そのときようやく、この人たちが“何者か”よりも先に——
(……僕、
本気で死にかけてたよな?)
その事実が、遅れてやってきた。
革鎧の女性が、剣を収める。
そして次の瞬間、
朝靄を割って現れたのは、
まさに“そういう世界”の住人みたいな三人組の女性達だった。
一人は白と青のローブに宝石のついた杖。
それに、軽装で素早そうな少女。
そして、布面積の少ない派手な衣装の魔法使い
先程の剣と鎧の女性を合わせると――
(……パーティ編成、完成してない?)
胸の奥が、ひやりとする。
(ここって……
もしかしてやっぱり、異世界!?)
いや、まだだ。
確信には早すぎる。
だが——
(じゃあ、この回復力は?
さっきの、青い光は?)
偶然にしては、出来すぎていないか?
昨夜の寒さ。
それを越えたはずなのに、今の体調。
筋肉は軽く、頭も冴えている。
普通じゃない。
(……温泉の成分が、強すぎるだけ?)
視線が、自然とあの湯に向かう。
湧き出す白い湯。
昨日と変わらないはずなのに、今は違って見える。
(もし、ここが……
ファンタジーゲームみたいな世界だとしたら)
思考が、止まらなくなる。
(回復が異常に早くて
血の巡りが力に直結して——)
ひとつの仮説が、頭をもたげた。
(……魔力?)
言葉にした瞬間、背筋がぞくりとした。
(この温泉……
もしかして、魔力を含んでる?)
もちろん、確証はない。
ただの連想だ。
現実の自分なら、真っ先に否定する類の考えだ。
でも。
目の前の光景が、それを否定しきれない
考えがまとまる前に、声が飛んできた。
軽装備の女性の声だった。
「キャーッ! 裸!」
「はっ!
そういえばそうだった!
す、すみません!!」
「——ッ!? まさか、君!
その湯に浸かったのか!?」
革鎧の女性が、剣に手をかけている。
視線は、僕じゃない。
温泉だ。
「危険だ!
その湯は——」
言葉が、途中で止まる。
理由は簡単。
僕が、普通に立っているからだ。
「……生きてる?」
呆然とした声。
(……ああ)
この世界では。
この湯は“近づいたら終わり”枠らしい。
「貴様、人に化けた魔物か?」
僕は、ゆっくり両手を上げた。
「ま、魔物じゃないです」
喉が渇く。
「それと……
その温泉」
一拍置いて、続けた。
「ちゃんと使えば、
たぶん、そこまで危なくないみたいですよ」
沈黙。
「……は?」
全員、同時。
(……やっちまった)
でも、引き下がれない。
今はまだ、
分からないことだらけだ。
人生で一番変な朝は、
どうやらここからが本番らしい。
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異世界温泉ソムリエ◆湯けむり道中 〜タオル一枚で異世界転移したら、 女勇者パーティーの休憩係になりました〜 NIKE @nike1
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