第2話 夜は、待ってくれない
日が傾くにつれて、谷の空気は目に見えて変わっていった。
さっきまで肌にまとわりついていた湿気が、嘘みたいに引いていく。
代わりに、ひやりとした感触が首筋をなぞった。
「……いや、急すぎないか?」
山奥だとしても、ここまで極端なのは経験がない。
昼は蒸し暑く、夜は一気に冷え込む——そういう場所はある。
だが、これは段階を踏んでいない。
まるで、誰かがスイッチを切り替えたみたいだ。
腕をさすると、さっきまでかいていた汗が冷えて、鳥肌が立った。
それにプラスして、現状タオル一枚。素っ裸。
(まずいな)
僕は、無意識に周囲を見回した。
テントはない。
寝袋も、防寒具もない。
焚き火に使えそうな乾いた木も、ほとんど見当たらない。
本当に裸一貫で突然この谷に放り出されたのだ。
当然、入浴前に脱ぎ捨てたはずの衣服もない。
(このまま夜を越えたら……)
考えたくなかったが、答えは明白だ。
低体温症。
それも、かなり早い段階で。
「……落ち着け、温水 泉」
自分の名前を口にして、無理やり思考を繋ぎ止める。
焦るな。
感情を先に出すな。
今ある資源を、洗い出す。
——岩。
——風。
——そして、温泉。
視線は、自然と湯へ向かった。
白い湯気が、外気に触れて一層濃くなっている。
湧出口付近は、相変わらず近寄るだけで熱気が伝わってくる。
「……熱すぎる」
だが。
それは、使い方次第だ。
温泉は、万能じゃない。
長く入れば体力を奪うし、急に冷えれば一気に持っていかれる。
でも——
熱源として使うなら、話は別だ。
僕は、湧出口から少し離れた場所へ移動した。
湯が岩肌を伝い、浅く溜まっている窪み。
そっと手を伸ばす。
「……いける」
熱い。
だが、触れないほどじゃない。
体感で四十度台後半。
長湯は論外だが、短時間なら問題ない。
(問題は、その後だ)
濡れたまま外に出れば、一気に熱を奪われる。
この冷え込みなら、数分で終わる。
僕は周囲を見回し、岩陰に目を留めた。
谷風が直接当たらず、湯気が溜まりやすい場所。
(……蒸し場にするしかないか)
僕はそっと温泉に近づいた。
心臓が、少し早くなった。
足先を、ゆっくりと湯に沈める。
「……っ」
熱が、皮膚を通して一気に上がってくる。
反射的に引きそうになるのを、ぐっと堪えた。
(入るな。
浸かるな。
温めるだけだ)
足、ふくらはぎ、膝下。
段階的に。
数分も経たないうちに、震えていた体が少し落ち着いた。
「……よし」
限界の一歩手前で、湯から出る。
すぐに岩陰へ移動し、体を丸めた。
湯気が、体を包む。
外気よりも、確実に温かい。
呼吸が、少し楽になる。
(……生きてる)
寒さは、まだある。
だが、致命的じゃない。
この繰り返しで、夜を越す。
そう決めた。
空を見上げると、いつの間にか太陽は完全に沈み、代わりに月が浮かんでいた。
二つ。
「……夢じゃない、よな」
自分に言い聞かせるように呟く。
ここがどこであれ。
日本じゃない可能性が高かろうと。
今は、それを考えている場合じゃない。
この世界——
少なくとも、この場所は。
「……油断したら、死ぬ」
湯気の中で、僕は小さく息を吐いた。
温泉YouTuberをやっていて良かった、なんて。
冗談みたいな話だ。
でも。
「……役に立つ日が来るとはな」
そう呟いて、目を閉じる。
夜は、長い。
だが、朝は必ず来る——と、信じるしかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます