第10話:私、失敗しないので ―諦めの悪い外科医たち―

地下五階、崩落し続ける「聖域」の瓦礫の真ん中で、それは始まった。


「……、殺せ。……殺してくれぇッ!」


理事長・大河原だったモノが、のたうち回りながら絶叫した。奪い取った無数の異能が、彼の体内で拒絶反応を起こし、肉体を異形へと変え続けている。ある部分は急速に肥大して赤ん坊のように柔らかく、ある部分は炭化した樹木のように黒く枯れ果て、膿と光の粒子が混ざり合った不気味な体液が床を濡らしていた。


室内に漂うのは、あまりに高濃度な生命エネルギーが腐った、吐き気を催すような「生の焦げ跡」の臭いだ。


「殺す? 冗談言うな」


零(れい)は、血に濡れたメスを逆手に持ち、冷徹な眼差しでその異形を見据えた。

彼の右手は、繋ぎ直した神経が悲鳴を上げ、指先から絶え間なく血を滴らせている。だが、その震えこそが、彼が神ではない「人間」である証だった。


「理事長。あんたはさんざん命をオモチャにしてきた。……だから、今度は俺が、あんたの死ぬ権利を奪ってやる」


「九条……、貴様ぁ……!」


大河原の右腕が、異能によって巨大な肉の塊へと膨れ上がり、零を叩き潰そうと振り下ろされる。だが、零は避けない。


「東雲(しののめ)! 第一・第二動脈の結紮(けっさつ)を維持しろ! 白銀(しろがね)、心臓の代わりに拍動を叩き込み続けろ!」


「……、やってやる、やってやるさ!」


廃人のように震えていた東雲が、涙を流しながら大河原の異形の肉体に飛びついた。白銀は壊れた除細動器を強引に短絡させ、大河原の崩壊する胸部に電撃を叩き込む。


「私、失敗しないので――。あんたを『死なせる』という失敗だけはな」


零の右手が、激痛を突き抜けて閃光のように走った。

ターゲットは、大河原の脊髄に癒着した、異能の供給源――「魔導核(コア)」。

異能の力で細胞を無限に再構築し続ける大河原にとって、死は最大の救済だ。だが、零はそれを許さない。再構築される端から、その「暴走の核」だけを、ミリ単位の精度で削り取っていく。


「ぐ、あああああッ! 痛い、痛い、痛い、痛い!!」


「痛いか。それが『生きてる』感覚だ。あんたが無視してきた、名もなき患者たちの温度だ!」


零の左手が、大河原の暴走する頸動脈を指先で圧迫し、血流を制御する。

右手のメスが、光を放つ核の周囲を、まるで蝶の羽根を解剖するように繊細に、、それでいて暴力的なまでの執念で抉じ開けていく。


噴き出すのは、熱い血だ。

異能の光ではない、ドロリとした、鉄臭い、人間の汚れた血。

その返り血を浴びながら、零は笑った。


「……、摘出、完了だ」


零の手のひらには、ドクドクと不気味な脈動を繰り返す、光り輝く肉の塊が握られていた。

その瞬間、大河原の肉体から「不自然な若さ」が霧散した。

肉は萎び、皮膚は枯れ、一人の醜い、卑小な老人の姿がそこにあった。


「……、あ……、あぁ……」


大河原は、もはや叫ぶ力もなく、瓦礫の中で弱々しく喘いだ。

死ぬことはできない。零が、彼の生命維持に必要な血管だけは完璧に繋ぎ直したからだ。彼はこれから、法という人間のルールの中で、永遠に続く老いと後悔の時間を歩むことになる。


---


数ヶ月後。


聖マリアンナ中央病院は閉鎖され、重機によって取り壊されていた。

不祥事と異能の暴走。権威の象徴だった白亜の巨塔は、今はただの瓦礫の山だ。


夕暮れの街。

オレンジ色の光が、長い影をアスファルトに描いている。


「ガラガラ……、ガタガタ……」


安っぽいアルミの車輪が、歩道を軋ませる音。

それは、かつて特養で正造が引いていたのと同じ、シルバーカーだった。

それを引いているのは、黒いコートを羽織った零だ。彼の右手には、厚い包帯が巻かれている。


「……、先生。そんなに急がなくても、逃げませんよ。今日の晩御飯は、里芋の煮転がしだって言ったじゃないですか」


隣を歩くのは、顔色の良くなった美月(みつき)だ。彼女は零のシルバーカーの籠に、スーパーの袋を無造作に入れた。中からは、ネギの青い匂いと、特売の醤油の香りが漂ってくる。


「……、うるさい。……重いんだよ、この車輪は」


「ふふっ。リハビリだって言って、それを買い与えたのは先生自身でしょ?」


零は足を止め、沈みゆく夕陽を見上げた。

街の騒音。車の排気ガスの匂い。どこかの家から流れてくる、カレーの匂い。

特養の廊下や、病院の地下室にはなかった、雑多で、汚くて、けれど愛おしい「生きている世界」の匂いだ。


東雲は、あの事件の後、医学の深淵に触れすぎた代償として、二度とメスを握れなくなったと聞く。彼は今、地方の診療所で、静かに薬を調剤する日々を送っているらしい。


「……、九条先生」


美月が、ふと真面目な顔をして零を見た。


「あの時、理事長の手術を終えた後、どうしてあんなに悲しそうな顔をしてたんですか?」


零は、右手の包帯をそっと撫でた。

そこにはもう、神の奇跡はない。ただ、季節の変わり目に疼く、鈍い痛みがあるだけだ。


「……、悲しくなんてないさ。ただ、……神様なんて、どこにもいないんだなって、改めて確信しただけだ」


零は再び、シルバーカーを押し出した。

「ガタ、ガタガタ……」

孤独な車輪の音が、二人の歩調に合わせてリズムを刻む。


「……、神様なんていない。……だが、今日を生き延びたお前は、確かにここにいる」


零の言葉は、夕風に溶けて、家路を急ぐ人々の雑踏へと消えていった。

彼はもう、奇跡を売る死神ではない。

ただの、諦めの悪い外科医として、この泥臭い世界を、一歩ずつ踏みしめて歩いていく。


夕闇が街を包み込み、街灯が一つ、また一つと灯り始める。

その小さな、頼りない光は、どの異能の輝きよりも、ずっと温かく世界を照らしていた。


(完)


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