第8話:最後のブラックジャック ―人間であることの証明― 【零の核】

「……、九条、さん。そんな、顔、しないで」


隔離病棟の最深部。ベッドに横たわる看護師・美月の声は、今にも消え入りそうなほど細かった。彼女の肌は雪のように白く、その浮き出た血管には、黒い毒のような『ヴォイド』の残滓が這い回っている。


室内には、彼女が吐き出す熱く湿った呼吸の音と、死が間近に迫った時の、あの独特の、甘ったるくも不快な腐敗臭が漂い始めていた。


「黙ってろ。……今、止めてやる」


零の左手が、彼女の手首を掴む。脈拍は速く、そして羽虫の羽撃きのように弱々しい。

傍らのトレイには、一本の銀色のシリンジが置かれていた。聖マリアンナ病院の秘密区画から奪い出した『異能再核化触媒(リ・コア)』。


これを零の体に打てば、奪われ、封印された彼の右手の異能は、爆発的な輝きと共に蘇る。神の如き力でウイルスの核を焼き切り、美月を瞬時に救うことができるだろう。


「九条先生……。打って、ください。……あなたが、あの『完璧な神』に戻れば、私は助かるんでしょう?」


傍らでガタガタと震える白銀(しろがね)が、縋るような声を出す。

零はシリンジを手に取った。冷たいガラスの感触。この中には、かつて彼を狂わせた、万能という名の麻薬が詰まっている。


「……神、か」


零は自嘲気味に呟き、シリンジを床に叩きつけた。

ガシャン、と鋭い音が響き、透明な液体が泥まみれのブーツを濡らす。


「な、何をするんだ! 唯一の希望を……!」


「希望? 冗談言うな。一度神になった奴は、人間の、この『指先の震え』を忘れるんだよ。……俺は、二度とあっち側には行かない」


零はコートを脱ぎ捨て、右手の包帯を歯で噛み切って解いた。

現れたのは、無数の傷跡に覆われ、力なく垂れ下がった右腕だ。彼は自身の左手で、その動かない右腕の皮膚を、躊躇なく切り裂いた。


「……、九条さん!?」


美月が目を見開く。零は自分の腕を解剖し、断裂したまま放置されていた神経の末端を、剥き出しにした。


「異能なんて奇跡はいらない。……俺は、この『壊れた手』で、人間としてあんたを救う」


零は、自分の右腕の神経を、左手一本で繋ぎ直し始めた。

局所麻酔すらしない。

「……、ッ!」

歯を食いしばる零の口端から、血が滲む。脂汗が滴り、床の血溜まりに落ちて「ポツリ、ポツリ」と音を立てる。

肉を裂く音。神経を縫う糸が擦れる音。

激痛が零の脳を焼き、視界が真っ赤に染まる。だが、その痛みが、彼が「神」ではなく「人間」であるという強烈な実感を呼び覚ましていた。


「……、繋がれッ!」


零が吠えた瞬間、死んでいたはずの右手の指先が、ビクリと跳ねた。

十年。

動かなかった「神の手」が、今は「人間の手」として、激痛と共に蘇った。


零はそのまま、美月の開胸手術へと突入した。

右手と左手。

両方の指先が、ウイルスの巣食う心臓の裏側へ、ミリ単位の精度で滑り込む。

彼の指先からは、血が滴っていた。自分の腕から、患者の胸へと。


「……、奇跡に頼るな。美月、聞こえるか。……人間として、一秒でも長く抗え。俺も、今、地獄みたいな痛みの中で抗ってる」


零の指先は、ウイルスの核となっている微細な血栓を、一つずつ、物理的に「摘み取って」いく。

異能の光はない。

あるのは、零の荒い呼吸と、彼の指から溢れる、生々しく熱い「生身の血液」だけだ。


「……熱い。……九条さんの手が、……熱いよ」


美月の瞳に、微かな光が戻る。

零は、右手の痛みに耐えながら、最後の一片の毒を排出した。

指先を走る激痛は、もはや悲鳴を上げている。爪の間からは血が噴き出し、糸を操る手元は赤く染まっている。


「……、終わったぞ。……帰ってこい、美月」


零が縫合を終えた瞬間。

ピー、ピー、ピー――。

死の沈黙を刻んでいたモニターが、力強く、規則正しい「生の鼓動」を打ち始めた。


零は、そのまま力なく椅子に座り込んだ。

繋ぎ直した右腕からは、今もドクドクと血が流れ落ち、床に赤い模様を作っている。


「……、九条先生、あなたは……。異能を捨てて、自らの肉体を壊してまで……」


白銀が、呆然と立ち尽くしていた。

零は、血に濡れた右手を見つめ、静かに、けれど誇らしげに笑った。


「……。白銀、見てろ。これが『人間』の限界だ。……神様には、この達成感の味はわかるまい」


室内を支配していた腐敗臭は、いつの間にか、零が流した鮮血の、鉄臭くも力強い生命の匂いに塗り替えられていた。

窓の外、厚い雲の切れ間から、鋭い月光が差し込み、血に染まった零の手を青白く照らし出す。


彼は、自分の意思で「神」を殺し、「人間」としての誇りを取り戻した。

その手は震え、傷だらけだったが、どの異能の光よりも、気高く、熱かった。


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