第7話:神の領域への挑戦(後編) ―土下座とカルテ―

「……、九条ッ! 九条零はどこだ! 早く、早く私を治せ!!」


聖マリアンナ中央病院、特別VIPフロア。

かつては最高級の大理石が輝き、選ばれた者たちの優雅な笑い声が響いていたその場所は、今や「特権階級の地獄」と化していた。


異能を喰らうウイルス『ヴォイド』。その猛威は、異能を贅沢に使い続けてきた理事や院長たちほど、残酷に蝕んでいた。


「ひ、ひぃ……、手が、私の『黄金の左手』が黒ずんでいく……!」


廊下に這い出したのは、かつて零を見下した院長だった。彼の全身からは、壊死した組織が放つ、ドロリとした内臓の腐る匂いが漂っている。かつてのアロマの香りは、死の腐敗臭に完全に塗り潰されていた。


そこへ、重いブーツの音が響いた。

「ガツン、ガツン」と、無機質で力強い足音。

零は、肩に古びた救急バッグをかけ、泥のついたコートを翻して現れた。


「九条! 助けろ! 薬だ、異能を復活させる特効薬を私に打て! いくらでも払う、一億か、十億か!? この病院を貴様にやってもいい!」


院長が零のブーツに縋りつく。その手は、かつて多くの「持たざる者」を門前払いしてきた、傲慢な指だ。


零は、立ち止まり、冷徹な眼差しで院長を見下ろした。

「……、薬? そんなもん、あるわけないだろ。あんたの頭は、まだお花畑のままか」


「な……、嘘だ! お前なら作れるはずだ、あの貧乏人どもを救っている『魔法の薬』が……!」


零は鼻で笑った。

「魔法? 冗談言うな。俺がやってるのは、冷たい水で傷を洗い、膿を絞り出し、一本の糸で肉を繋ぐ……あんたらが『古臭い』と笑った、ただのドブ板医療だよ」


零は院長の手を無造作に振り払うと、その先にある、一般病棟から運ばれてきた「名もなき患者」の元へ歩み寄った。


「おい、九条! 私を差し置いて、そんな浮浪者同然の男を先に診るのか!? 私は院長だぞ! 日本医療の頂点だぞ!!」


背後で他の理事たちも喚き散らす。

「そうだ! 命には優先順位がある! 我々がいなくなれば、日本の医療は崩壊するんだぞ!」


零は、患者の傷口を洗浄しながら、ゆっくりと振り返った。

その瞳には、極寒の吹雪のような静かな怒りが宿っていた。


「……、優先順位、か。いい言葉だな。あんたたちがずっと、この病院の合言葉にしてきた言葉だ」


零はバッグの中から、一束の分厚い書類を取り出した。

それは、折れ曲がり、汚れ、至るところに「拒否」の赤いスタンプが押されたカルテの山だった。


「これはなんだ……?」


「あんたたちが、この三年間で『支払い能力がない』『異能で治す価値がない』と切り捨ててきた、受診拒否の記録だ。……ほら、院長。このカルテの男は、あんたが追い出した一週間後に、道端で凍死した。この女は、薬を貰えずに子供を残して逝ったよ」


零は、そのカルテを一枚、また一枚と、床に這いつくばる理事たちの頭上にバラ撒いた。

雪のように舞い落ちる絶望の記録。それは、彼らがこれまで踏みにじってきた命の重さだった。


「……、今、あんたたちの前に並んでるのは、このカルテの連中だ。あんたたちが作った『列』の、最後尾に並んでるのは、どっちだと思う?」


「あ……、あぁ……」


院長が、自分の目の前に落ちたカルテに記された「拒否」の文字を見て、ガタガタと震え出した。

廊下には、今も一般病棟から、苦痛に満ちた喘ぎ声と、零の手当を受ける患者たちの安堵の吐息が混ざり合って響いている。


「九条……、頼む……、死にたくない……! 助けてくれ、頼む、頼む……!」


ついに、プライドをかなぐり捨てた院長が、額を床に擦り付け、涙と鼻水で顔を汚しながら土下座した。他の理事たちも、次々と床に這いつくばる。


「……、順番だ」


零の声は、石のように冷たかった。


「あんたたちが決めたルールだろ? 『命には順番がある』ってな。なら、お前らは最後だ。……俺がこの病棟の全員を救い終わって、もし気が向いたら、その腐った肉を掃除してやるよ。それまで、自分が捨てた命の重さを噛み締めながら、せいぜい地獄の底を這ってろ」


零は、土下座する彼らを跨ぎ、再び患者の元へと戻った。


「あぁ……! 九条ぉぉ……!!」


絶叫が響くが、零は一度も振り返らない。

彼の手には、異能の光はない。あるのは、患者の血で汚れた古いメスと、執念だけで繋ぎ止める生命の糸。


特別フロアに満ちていた「偽りの神聖さ」は完全に消え去り、そこにはただ、自業自得の報いに怯える人間の、生々しく、醜い「生の執着」の匂いだけが立ち込めていた。


窓の外では、夜明け前の冷たい雨が、病院の汚れを洗い流すように激しく降り続いていた。


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