第6話:絶望のパンデミック(前編) ―無力な神々―

「……、消えた。私の『光』が、出ない……ッ!」


聖マリアンナ中央病院の廊下に、一人の医師の悲鳴が木霊した。

かつて優雅に異能を操っていたその手は、今やただの肉の塊として震えている。指先からは、誇り高き黄金の粒子も、青い治癒の波紋も、一滴として溢れ出すことはなかった。


病院を支配していたのは、未知の変異ウイルス『ヴォイド(虚空)』。

それは人間の細胞に寄生するのではなく、医師たちの「異能の源」である脳の特定領域を食い潰し、その超常の力を無効化する。


「ナースコールを止めろ! 耳が狂いそうだ!」


事務局長が叫ぶが、壁一面のランプは狂ったように点滅を繰り返している。

ピピピピ、ピピピピ――。

電子音が、死を宣告する秒読みのように絶え間なく鼓膜を刺す。


院内に漂っているのは、消毒液の匂いではない。

それは、魔法を奪われたエリートたちが流す、脂ぎった冷や汗の匂いだ。恐怖に駆られ、逃げ場を失った獣たちが放つ、独特の、酸鼻極まる体臭が空気中に澱んでいる。


「零……。お前、なぜ平然としていられる。お前だって、かつては異能を持っていたんだろう!?」


廊下の隅で膝をつく白銀(しろがね)が、縋るような目で零を見上げた。

零は、汚れの目立つコートのポケットに手を突っ込み、ガムを噛みながら、壁に寄りかかっていた。彼の周囲だけは、異能の暴走や喪失によるパニックから切り離された、奇妙な静寂が保たれている。


「……平然? 冗談言うな。俺はいつだって、この耳障りなアラート音と、ヘドが出るような死の匂いの中で生きてきたんだよ」


零は一歩踏み出し、床に転がっていたストレッチャーを引き寄せた。そこには、呼吸困難で顔を紫に変えた患者が横たわっている。


「白銀。お前たちの『神の手』は、電池が切れたらただのゴミか? ほら、患者が苦しんでるぞ。異能が出ないなら、自分の手で胸を押せ。肺に空気を送り込め。……医者だろ、あんた」


「無茶を言うな! 私たちは、異能を増幅させて治療するように教育されてきたんだ。……ただの徒手空拳で、このウイルスを相手にしろというのか……!」


白銀の指先が、震えながら患者の胸に触れる。だが、そこには何の反応も、魔法も起きない。

かつて万能感を享受していた医師たちのプライドは、異能という杖を奪われた瞬間に、音を立てて崩れ去っていた。


「……、聞こえるか、この音」


零が、不意に足を止めて天井を仰いだ。

「……何の音だ。ナースコール以外、何も聞こえないぞ」


「違う。……粘膜が焼け、肺胞が潰れていく音だ。このウイルス、ただ異能を消すだけじゃない。異能の『残滓』を栄養にして増殖してやがる」


零の鼻腔が、微かな、甘ったるい腐敗臭を捉えた。

それは、異能という過剰なエネルギーを注ぎ込まれ続けた「特権階級の患者」から順に、身体が内側から溶け始めているサインだった。


「ひ、ひぃっ! 助けてくれ! 私は理事長だぞ、最高の医療を受ける権利がある!」


奥の特別室から、肥え太った男が這い出してきた。彼の全身からは、かつて自慢していた「不老の異能」の残光が、黒い霧となって噴き出している。


「……権利、ねえ。理事長、あんたの体、今最高に美味そうに腐ってるぞ。あんたが蓄えてきた『異能』という名の贅肉が、ウイルスにとって最高の餌だ」


零は冷たく言い放つと、白銀から奪い取った古びた聴診器を耳に当てた。

「……。白銀、まだ見てるだけか? 魔法が消えて、やっとお前は『人間』になれたんだ。……自分の手のひらの温かさぐらい、思い出したらどうだ」


零の左手が、患者の喉元に鋭く走る。

異能による切開ではない。ただの、使い古されたメスによる一閃。

気管挿管。

プシュッ、という音と共に、詰まっていた痰と血が噴き出す。


「……、汚いな。だが、これが『医療』の現場だ」


零の顔に、患者の返り血が飛ぶ。

彼はそれを拭いもせず、患者の胸を力強く、一定のリズムで叩き始めた。


「ピ――、ピ――」

モニターの脈拍が、零の手のリズムに同調するように、弱々しく、けれど確かに動き出す。


「……信じられない。ただの心臓マッサージだけで……、異能による活性化もなしに……」


「白銀。……お前たちの神様は死んだ。だが、目の前の人間はまだ死んでない。……動けよ。それとも、その綺麗な白衣が汚れるのが、そんなに怖いか?」


零の挑発に、白銀の手が微かに動いた。

院内に充満する、死と恐怖の匂い。鳴り止まない電子音の嵐。

その絶望のパンデミックの中で、異能を失った医師たちは、初めて「自分たちの手の無力さ」と「それでも動かさなければならない義務」の狭間で、獣のような呻き声を上げた。


「……、九条。……薬はあるのか。このウイルスを殺す術は」


「さあな。だが、異能が効かないなら、やることは一つだ」


零は、血に濡れたメスを掲げ、暗い廊下の先を見据えた。


「……『ただの医学』で、このバケモノを解剖してやる」


窓の外では、冬の嵐が吹き荒れ、病院という名の要塞を冷たく叩いていた。

神を失った医師たちの、絶望の夜が幕を開ける。


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