第5話:奪われた右手の記憶 ―模倣者は、心臓を掴めない― 【最重要回】
聖マリアンナ中央病院、大講堂。
正面の巨大スクリーンには、超高精細カメラが捉えた心臓の拍動が映し出されている。
世界中が注目する「完全無欠の公開手術」。術者は、現代医学の至宝、東雲(しののめ)。
「……。最適解、抽出。これより大動脈弓の置換を開始する」
東雲の指先から、眩いばかりの純白の光が漏れ出した。異能『最適解保持(オプティマイズ)』。かつて零の右手に宿っていたその力は、今や東雲の血肉となり、一切の迷いなくメスを走らせている。
「見てください。東雲先生の動きには、0.1ミリの無駄もない。まるで神がプログラムした機械のようだ……」
観客席の医師たちが感嘆の溜息を漏らす。室内は、冷徹なまでの空調管理と、オゾンのような無機質な匂いに支配されていた。
だが、その壇上。東雲の背後に、影のように立つ男がいた。
泥まみれのブーツ。ボロボロのコート。零だ。
「……、相変わらずだな、東雲。お前の手からは、死体の匂いすらしない」
「九条……。負け犬がなぜここに。私の異能に、跪きに来たか?」
東雲はモニターから目を離さず、鼻で笑った。彼の指先は、零から奪った『最適解』によって、血管の壁を一寸の狂いもなく繋いでいく。
「最適解、だと? 東雲、お前がなぞっているのは『過去の統計』だ。心臓はな、教科書通りには動かない。……ほら、聞こえないか。心筋が、お前の冷たい指に怯えて、リズムを乱し始めているぞ」
「ふん。不整脈の兆候など、私の計算には一切出ていない。システムは『正常』だ」
東雲は自信満々に次の縫合に入ろうとした。
その瞬間。
ドクン、という不自然な衝撃が、術野の心臓から伝わった。
スクリーン上の心電図が、一瞬だけ、鋭く、不規則な針を描く。
「……ッ!? なんだ、今の揺れは。エラーか?」
東雲の指が、一瞬だけ止まる。彼の異能『最適解』は、あまりに「完璧」を求めすぎるがゆえに、想定外のノイズ――「生きた人間の不確定な揺らぎ」を処理しきれない。
「エラーじゃない。患者の『悲鳴』だ。東雲、お前は俺の右手を盗んだが、その先にある『手応え』までは盗めなかったようだな」
零は一歩、術野へと踏み出した。
彼は、動かないはずの「右の手のひら」を、剥き出しの心臓に、直接、そっと重ねた。
「な、……素手で触れるな! 汚らわしい!」
「汚いのはどっちだ。……動け」
零は目を閉じた。
死んだはずの右手の神経。そこにはもう、熱も痛みも感じないはずだった。
だが、心筋が刻む微かな震え、血液が弁を叩く重い振動が、肉の感覚を超えて、零の魂に直接流れ込んでくる。
「……。東雲、三秒後だ。左冠動脈の裏側、お前が『完璧』だと信じて繋いだ結び目が、血圧の僅かな上昇で弾ける」
「馬鹿な! 私の縫合は理論上、最強の強度で……」
――パチン。
東雲の言葉を遮るように、透明な糸が弾ける音が響いた。
鮮血が噴き出す。それは東雲の計算には存在しなかった、「絶望の赤」だった。
「な、なぜだ! 最適解は……、私の計算は完璧だったはずだ! 止まれ、戻れ! 最適解を再計算しろ!」
パニックに陥った東雲の指先から、純白の光が暴走し始めた。光の粒子が火花を散らし、彼のプライドを焼き焦がす。
「東雲。お前は零(ゼロ)をコピーしたが、俺が積み上げた『痛み』までは盗めなかったんだよ」
零は、右の手のひらで、心臓を包み込んだまま離さなかった。
彼は、指先の感覚を極限まで研ぎ澄ます。
どれだけの手術をこなし、どれだけの失敗に血の涙を流し、どれほどの重圧をこの手に刻んできたか。
「……。心臓を掴むのは異能じゃない。執念だ。……東雲、お前の異能は、俺の過去に過ぎない。俺の『今』は、もうその先を行っている」
零は左手で持針器を掴むと、東雲が「完璧」だと言い張った縫合を一気に解き、自身の「手触り」に従って、新たな糸を紡ぎ始めた。
「……温かい。……血が、通い始めたぞ」
零の独り言と共に、暴走していた心電図が、ゆっくりと、力強い一定のリズムを取り戻した。
スクリーンには、零が手作業で編み上げた、力強く、どこか泥臭いほど人間味のある心臓の鼓動が映し出されている。
東雲は、真っ白になった自分の手を見つめ、がっくりと膝をついた。
彼の異能は、零という「本物」を前にして、完全に消え失せていた。
「……九条。……お前は、何を見たんだ。私の異能の、その先に、何を……」
「何も見ていないさ。……ただ、この心臓の熱を感じていただけだ」
零は、右の手のひらを心臓から離した。
そこには、神経は通っていない。けれど、確かに「誰かの命を繋ぎ止めた」という、激しい、疼くような残熱が宿っていた。
「……代金は、お前のその『偽物の名前』でいい。……東雲、お前の物語は、ここで終わりだ」
零は、公開手術のステージを下り、深い影へと消えていった。
大講堂に満ちていた無機質なオゾンの匂いは、いつの間にか、零が持ち込んだ、泥臭くも温かい「生の匂い」に上書きされていた。
東雲の耳には、もはや異能の囁きは聞こえない。
ただ、自分が救えなかった患者の、静かな、けれど確かな心音だけが、彼の敗北を告げる鐘のように、鳴り響き続けていた。
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