第4話:孤高の島と偽りの救世主 ―潮騒の中の沈黙―
錆びついたプロペラ機が吐き出す熱風と、重苦しいほど濃い潮の匂い。
零(れい)が降り立ったのは、本土から見捨てられた絶海の孤島、八上島(やかみじま)だった。
「……ひどい匂いだ。潮騒に紛れて、腐敗が島全体を飲み込もうとしている」
零は泥まみれのブーツを鳴らし、島で唯一の診療所へと足を向けた。そこは、まるで宗教施設のように白く塗り固められ、入り口には「救世主」を称える島民たちが跪いていた。
「神野(かみの)先生! 今日もお願いします! 息子の痛みを止めてください!」
診療所の奥から現れたのは、純白のスーツに身を包んだ男、神野だった。彼は微笑みながら、膿の溜まった少年の足に優しく手をかざす。
その瞬間、神野の掌から黄金色の柔らかな光が溢れ出した。異能『安息の光(スリープ・ペイン)』。
「もう大丈夫。苦しみは、私がすべて消し去りました」
少年の顔から苦悶が消え、歓喜の叫びが上がる。島民たちは「奇跡だ」と拝み、神野に供え物を捧げた。
「……、反吐が出るな」
診療所の影から、零が冷たく言い放った。
「誰だ、貴様は!」
神野の鋭い視線が飛ぶ。零は、少年の腫れ上がった足を指差した。
「神野。お前のその光……痛みの神経を麻痺させているだけだろ。腫れは引いていない。むしろ、組織の奥で膿がさらに深部へと潜り込んでいる。お前がやっているのは『治癒』じゃない。死に至るまでの『沈黙』を強いているだけだ」
「無礼な……。私の異能は、この島を救う神の力だ。痛みがないことこそが救いなのだよ」
「痛みが消えりゃ、身体は『異常』を知らせる声を失うんだ。……ほら、嗅いでみろ。この甘ったるい光の匂いの下に、骨を溶かすほどの腐敗臭がこびりついてるぞ」
零は強引に神野を突き飛ばし、少年の足首を掴んだ。
「ぎゃああ!」と叫ぶはずの少年は、痛みを感じないまま、自分の足から溢れ出したドロリとした緑色の膿を見て、ただ目を見開いた。
「手遅れになるぞ。……神野、お前の異能じゃ、この膿は一滴も出せない。魔法が解けた時、この子は敗血症で死ぬ」
「バカな! 私の診療所には、そんな重病を治す設備も薬も……」
「道具がなきゃ、作るまでだ。……婆さん、そこにある竹を持ってこい。あと、強い焼酎と、古い真鍮の管だ。急げ!」
零は、診療所の清潔なベッドを蹴散らし、古びた木机の上に少年の足を乗せた。
彼が始めたのは、現代医療の最新機器によるオペではない。古文書に記された「華岡青洲」の流れを汲む、江戸時代の医術をベースにした「土着の外科処置」だった。
「……、そんな古いやり方で何ができる! 不潔だ!」
「最新の薬を神棚に飾って、患者を死なせるのがお前の『清潔』か?」
零は焼酎を口に含み、即席で熱した真鍮の管に吹きかける。シュッという音と共に、鼻を突くアルコールの蒸気が立ち込めた。零は麻酔の代わりに、少年の特定のツボを左手で強く圧迫する(点穴)。
「……、今から切る。……神野、お前の『光』なんてまやかしを、この本物の痛みの熱で焼き切ってやるよ」
零の左手が、竹を削って作った即席のヘラと、研ぎ澄まされたメスを操る。
「グチュッ」と重い音がし、溜まっていた膿が噴出した。診療所内に、耐え難いほどの悪臭が充満する。それは、神野が「美しさ」で蓋をしてきた、隠しようのない現実の匂いだった。
「……あ、……あぁ……」
島民たちが後ずさりする。零は、竹の管を傷口に差し込み、膿を吸い出した。一滴、また一滴と、黒い血が床に滴る。
「……見てろ。これが『治療』だ。痛くて、汚くて、血生臭い。だがな、これが生きてるって証拠だ」
零の額から汗が滴り、少年の足の血管を一本ずつ、細い絹糸で縛っていく。異能の光はない。ただ、波の音と、零の荒い呼吸音だけが室内に響く。
一時間後。
噴き出していた膿は止まり、少年の足の腫れは、目に見えて引いていた。
「……、痛い。……おじちゃん、痛いよぉ……」
少年が泣き声を上げた。その声を聞いた瞬間、零は初めて微かに口角を上げた。
「……ああ、痛いか。おめでとう、坊主。お前の身体が、また自分の言葉で喋り始めた。生きようとしてる証拠だ」
神野は、黄金の光を失った自分の掌を見つめ、ガタガタと震えていた。
「……私の……私の奇跡が、こんな泥臭い男に……」
「神野。お前が欲しかったのは救世主の名声だろ。だが、島民がお前に求めていたのは、そんな『まやかしの安息』じゃない。……この血と汗の匂いだ」
零は、診療所の窓を開け放った。
そこから流れ込んできたのは、腐敗臭を洗い流すような、力強く、暴力的なまでの潮の香りと、新しい朝の風だった。
「……、さあ。神様ごっこは終わりだ。ここからは、ただの人間として、泥を啜って罪を償え」
零は、少年の傷口を丁寧に布で包み込むと、再び重いブーツを鳴らして、沈黙の島を去っていった。
残された神野の耳には、これまで聞こえなかった島民たちの「生」の喘ぎが、波の音と共に、いつまでも、いつまでも響き続けていた。
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