第3話:診断の嘘 ―未来視の盲点―
「……、三日後。この患者の右冠動脈は閉塞し、心筋梗塞を起こす」
聖マリアンナ中央病院、特別診断室。
空調の効いた室内には、高価なアロマの香りが漂っている。診断医・御手洗(みたらい)は、琥珀色の眼鏡の奥で、尊大に目を細めた。彼の背後には、最新のホログラムディスプレイが展開され、患者のデータが「未来」という名の予測値と共に踊っている。
異能『未来視(ヴィジョン)』。
それが、御手洗を現代医療の「予言者」に押し上げた力だった。
「御手洗先生……。三日後ですか。やはり、先生の眼に狂いはない」
傍らに控える製薬会社の男が、媚びるような笑みを浮かべる。男の手には、御手洗が「予言」した病状に合わせて処方される予定の、極めて高額な新薬の資料が握られていた。
「私の眼は、外さない。この男に、この最高級の血栓溶解剤を投与しなさい。……一錠、十万円もするが、命には代えられんだろう?」
御手洗は、ベッドに横たわる痩せ細った初老の男を見下した。男は不安げに、震える手でシーツを握りしめている。
その時、重厚な扉が、蹴り破るような音を立てて開いた。
漂っていたアロマの香りが、一瞬でかき消される。入ってきたのは、都会の排気ガスと、濡れた犬のような泥臭さを纏った男――零だった。
「……予言、か。随分と安っぽい宗教を始めたな、御手洗」
「九条……零! ここは許可なき者の立ち入りは禁止だ!」
御手洗の頬が屈辱で痙攣する。零は気にした様子もなく、患者の枕元まで歩み寄った。
「未来が見える眼、ねえ。御手洗、お前はその眼で、目の前の『現実』を見てるのか?」
「何を言う! 私のヴィジョンは、数秒先から数年先までの病状の変化を完璧に映し出す! 最新の統計学と異能の融合だ!」
「統計学? ああ、そうだろうな。お前のそれは異能じゃない。ただの高速演算だ。過去の症例を脳内で検索し、もっともらしい『予測』を吐き出してるだけだ」
零は、患者の手に触れた。
その指先は、患者の爪を軽く圧迫し、血の戻りの速さを確認している。
「……御手洗。お前の『未来』に、この爪の不自然な湾曲(ばち指)は映ったか?」
「……、そんな些細な身体的特徴など……」
「些細だと?」
零は鼻を鳴らし、今度は患者の口元に顔を近づけた。患者が吐き出した微かな呼気。それを零は深く吸い込んだ。
「……微かに甘酸っぱい匂い(アセトン臭)。それに、さっき廊下でお前が歩かせていた時の、左足をわずかに引きずるようなあの癖。御手洗、お前の計算式に、これらは入っていたか?」
「何を……出鱈目な! この男の主訴は胸痛だ! 心臓のデータは完璧に分析している!」
「だからお前は二流なんだ。お前が見ているのは『心臓』という部品であって、この『男』じゃない」
零は、患者の腹部を、服の上から左手で鋭く叩いた(打診)。
コン、という重く濁った音が室内に響く。
「三日後に心筋梗塞を起こす? ふん、笑わせるな。この男が今日、一時間以内に死ぬ原因は心臓じゃない。……重度の膵炎による、多臓器不全の兆候だ」
「膵炎だと!? 馬鹿な、血液検査の数値は正常範囲内だった!」
「数値はな。だが、この男の膵臓は、お前が癒着している製薬会社の『高額な血栓薬』の成分と、潜在的な持病のせいで、今この瞬間も自己消化を起こしてるんだよ。……ほら、嗅いでみろ。血の混じった、ドロリとした内臓の腐る匂いが、もう立ち上ってきてるぞ」
「嘘だ……! 私のヴィジョンには、そんなものは……!」
御手洗が慌ててホログラムを操作する。だが、どれだけデータを更新しても、ディスプレイには「心筋梗塞」の文字しか踊らない。
その時、患者が突然、激しくのたうち回り、どす黒い吐瀉物をぶちまけた。
アロマの香りは、一瞬で胃液と血液の混じった酸鼻極まる悪臭に塗り替えられた。
「……あ、……あぁ……!」
御手洗が腰を抜かす。
零は、汚れを厭わずに患者の身体を支え、即座に処置を開始した。
「……。御手洗。お前の『未来』が外れた一秒後、この患者の『今』が消えるところだったぞ」
零の左手が、患者の背中を、ある一点だけを強く圧迫する。
その衝撃で、患者の痙攣がピタリと止まった。
「統計学は便利だがな、人間は数字じゃない。……お前が未来を夢想してる間に、俺は患者の皮膚の温度、吐息の湿り気、歩く時の靴音の乱れ、そのすべてをこの五感に焼き付けてきた」
零は、呆然とする御手洗の眼鏡を、血のついた指で弾き飛ばした。
「未来が見える眼が聞いて呆れるな。……自分の足元に空いた、底なしのドブも見えてなかったのか?」
御手洗は、飛び散った吐瀉物の中に這いつくばりながら、ガタガタと震えていた。彼が誇っていた『未来視』は、今や真っ暗な絶望しか映し出さない。
「製薬会社との契約も、予言者の名声も、全部このドブに捨てていけ。……お前に救える未来なんて、どこにもないんだからな」
零は患者を車椅子に乗せ、無愛想に診断室を出ていった。
残された部屋には、もはやアロマの香りは一欠片もなく、ただ、権威が腐り落ちた後の醜い匂いだけが充満していた。
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