第三話「ダンサー・イン・ザ・ダーク その②」

 ──ひとつ、思っていたことがある。


 もし人生を物語だとするならば、あたしの物語はあたしが死んだ時にもう終わっているのだから、それからの世界や、周りの人間がどうなるかなどは全く関係ないことなのだと。つまり断つべき未練も、晴らすべき無念も、やっぱり最初からそんなものなかったんだって。


 あたしは幽霊じゃない。ただ、だけなんだわ。現在いま、この世を生きる物語の観測者側──いや、読者に。


「思った通りね」


 気がつくと目の前には、さっきまではなかった自分の影が足元から伸びていた。まるであたしを見つめ返すかのように。

 ひとたび部屋中を見回すと、今しがたここを出ようとしていたはずのパパはこちらを凝視したまま近くの壁際にへたり込み、引きつった顔で固まっていた。


「やっぱりあたしが見えるのね! 嬉しいわ、パパ」


 他人の意識に入り込み存在を強く認識させるこの能力は、死んだあたしに贈られた神様からのギフト、とでもいったところかしら。

 誰にも見えず声も聞こえない、幽霊のような状態になったのはただの副作用のようなもので、真の効果を発揮するのはここからってこと。


 こんな風に特定の誰かの意識に入りさえすれば、その相手にだけは姿が見えるし、声も届けることができる──って、


「あら? 聞こえてるわよね、あたしの声。もしもーし」


 腰を曲げ姿勢を低くしながらも見下ろしたまま、未だあたしに対し一言も発していないパパの眼前で手を振ってみる。


「なっなんで⋯⋯いつからここにいる?」


 やっと喋ってくれたと思ったら、ガス漏れみたいにちっちゃな掠れた声。よっぽど喉が渇いたみたいね。


「なんでって⋯⋯あんたが殺したからでしょ? そん時からずっとそばにいたわよ。当然でしょ」


 後半はハッタリだけれど、今のこいつにはきっとこれが一番効く。そもそもあたしが全部正直に答えると思ったら大間違いだわ。外面だけよく見せることばかり考えてきた、欺瞞だらけのパパに育てられたんだから。それにあんたと対話ができると知ったときから、あたしのはもう始まってるのよ。


「で、まだ行かなくていいわけ? 葬式のことはよくわからないけれど、あんた〝モシュ〟ってやつなんでしょ?」

「こっ⋯⋯こんな状況で行けるか! ずっといたんならよ、お前ぇ、今更なんのつもりで出てきやがった!」


 だんだんと声にだけ威勢が戻ってきたパパは、シワだらけの額に脂汗を溜めながらまくしたててくる。


「消えてろっ⋯⋯さっきまでみたいに! 今すぐ俺の前から消えろ!」


 腰を抜かしたまま、無様にも目の前の虚空に向かって掻き分けるような動作を何度か繰り返している。もっとも、無意味な行為だけれど。


「言われなくても、すぐに消えてやるわよ」


 あたしだって、こんな奴といつまでも会話なんか続けたくない。さんざんあたしを虐げ、蔑ろにし、最終的には自分の利益のために命まで奪ったこのクズと。でも──


「でもそれはいくつか質問に答えてもらってからよ、パパ。あるわよね? それくらいの権利。今まで奪われてきた自由の分、たったそれだけのワガママでチャラにしてやろうってんだから、喜ぶべきことよ」


 生前のあたしじゃあ考えられないくらい、次から次へと言葉が溢れてくる。本来であれば、こんな態度をパパの前でとればすぐにでも拳が飛んできている。その激しい痛みへの恐怖に支配され、不用意に言葉を発することさえ自ら慎んでいた。


 ただし今のあたしには、命がなければ痛覚もない。触れることさえ、生者であるパパには敵わない。まさに無敵の状態。


 それにパパからしてみれば、手ずから殺めたはずの人間が目の前に現れるという前代未聞の恐怖体験が起きているといえる。


 実際今のあたしの目には、あれだけ実物以上に巨大に思えたパパの体躯からだが、面白いくらい萎縮しきって子供みたいに小さく見えている。ある意味安心したわ、こいつにも怖いものはあるんだって。


 だから逆にあたしは何に怯える必要もなく、こうしてパパを見下ろしながら好きなように発言できている。完全に、これまでと立場が逆転したって感じね。


「誰だ⋯⋯お前⋯⋯」


 一度も見せたことのないあたしの一面を目の当たりにしたからか、そんな記憶喪失みたいなことを震え声で呟く。気持ちは分かるけれど⋯⋯


「質問するのはあたしって言ってるわよね? あんたはそれに答えるだけ。まだ状況わかってないわけ?」

「だってよ、お前⋯⋯何をそんなにやがる」

「笑って⋯⋯?」


 この期に及んで質問を続けるパパに呆れるよりも先に、両手で自分の顔を触って確かめてみる。だって、あたしは今まで笑ったことがなかったんだもの。鏡の前で自然にそれを作ることさえできなかった。故にあたしは、他の子とは違って笑い方を知らないと⋯⋯そう結論づけていた。


 でも確かにパパの言う通り、どうやらあたしは今笑っている。──つまり自然に、口元に弧を描き、頬を吊り上げ、目を細めている。


 笑うって、こうすれば良かったのね。ここにきてようやく、論理的に笑顔それを理解することができた。ただ、今ここでできたということは、感覚的にはということ。もしかしたらあたしは、笑うこと自体はずっとできたのかもしれない。


 考えてみれば、クラスの男子と話している時もくだらない芸を見せられている時も、実のところ心底つまらないと感じていたのだから、そりゃ笑うこともないはずだわ。


 それだけじゃない。あの家で、あの教室で、あの学校で、あたしの心を弾ませることなんかなかった。多分、あたしの食指が動くのは今の状況のように、ひとりの人間が絶望的な窮地に追い詰められている様を、こうやって安全圏から眺めているときだけ。救いようがないほどに滑稽な、リアルの姿を。


「なるほど、ねえ」


 死んでからでも発見できる新事実もあるのね、それも自分のことで。やっぱり、人に視られるのは幸福なこと。久しぶりだから忘れかけていたわ。機会を与えてくれたパパには感謝しなきゃね。ただし、それは一旦後回し。


「何をひとりで、勝手に納得してやがる」

「何度も言わせないで。あくまで質問していいのはあたし。早く消えて欲しいんでしょう? さっさと終わらせるわよ」


 時間が経って少しずつ冷静さを取り戻してきた様子のパパに釘を刺す。口数は増えても依然として汗は出続けているし、立ち上がろうともしていない。あたしの優位は揺らがない。

 じゃあまず、と一つ目の質問を切り出す。


「これに関しては大方予想はついてるけれど⋯⋯最近あたしを殴ったり蹴ったりしなくなったのはなんでかしら?」

「⋯⋯多分お前の考えてる通りだよ。死体が傷とか痣だらけだったら俺のしてきたことがバレるだろ」


 わずかに逡巡をめぐらせたのち、ふてぶてしくそう吐き捨てる。自分の回答によって何か不都合が生じる可能性、今の状況からさっさと逃れたい気持ち、様々な思考が交錯し、焦り、その余裕のなさにより結果的にパパ自身が思ったままの正直な答えを引き出せているのでしょう。この調子で一切の猶予を与えないまま、質問を続ける。


「まあそうでしょうね。それじゃあ、いつからあたしを殺そうと思ってたの?」

「計画自体はひと月前くらいだが⋯⋯最初に思ったのはお前が生まれた時からだよ」

「なんで?」


 突然、さっきまで目線を床に這わせながら受け答えに徹していたパパがこちらを鋭く睨みつけ、噛み合わせの悪そうな歯を軋ませた。


「お前のせいであいつが、麻香まかが死んだからだよ」

「ここにきてママの話? 今まで一度だって話してくれたことなんかなかったのに?」

「質問に答えてやってるだけだよ。そもそも俺はお前を産むこと自体反対だった。麻香は身体が小さくて弱かったから、医者にも出産は危ぶまれてたしな」


 ただでさえ不細工な顔面を醜く歪ませ、枯れた声には怒気をこもらせながらも、パパは双眸から涙を流し始めた。あたしが死んでも決して見せることのなかった哀情に、思わず言葉を失う。まさかこれほどまでに、パパがママのことを愛していたとは。


「それでもあいつだけはお前を産むことに意欲的だった。だから俺もあいつの意志を尊重して、できることは全部やったんだ! 当然これだってすぐにやめた!」


 ポケットから握り込んだタバコの箱を、あたしの足元に叩きつけながらそう吐き捨てる。まあ確かに、これだけの重喫煙者が一年近くもの間タバコをやめるのはそれなりに覚悟が必要かもしれない。もっとも、あたしには理解も想像もできないけれど。


「なのにお前を遺してあいつは死んだ。常人と同じ出血量でも、あいつにとっては十分⋯⋯お前を産んだからだ。お前が産まれたから! お前と引き換えに、お前のせいで、お前があいつを! 殺したも同然だろうが!」


 昂っていく感情と共に、だんだんと支離滅裂になっていく言い回し。あたしへの憎悪をここぞとばかりに吐き散らかし、息切れしつつも今やどこか満足気に呼吸を整えている。


 しかし⋯⋯なるほど、こいつも「救いのない物語」の中にいたってわけね。この物語において、本来誰も悪くないはずなのに、最愛の妻の代わりに生を受けた娘をあだと見なし、やり場のない怒りをぶつけ、その傷心につけこまれる形で宗教団体に引き抜かれ、結果今のあたしのように悲劇が悲劇を生む展開を作り出したと⋯⋯つくづく浮かばれないわね、あたしは。そんなことを殺されたあとで言われたって、知ったこっちゃないってのに。


 まあいいわ。質問したかったこともし終えたことだし、パパの方も状況を受け入れて平常心を取り戻しつつある。このまま本調子へと回復する前に、計画の仕上げに取り掛からなくては。


「確かにあんたからしてみたら、あたしがママを死なせたも同然かもしれないわね」

「かもしれないじゃない、そうだと言ってんだよ!」

「ああそう⋯⋯でもね」


 すかさず言葉尻を捉えてくるパパに気圧されることなく、もう半歩ほど奴に詰め寄ると、額が擦れるくらい顔を近づけ、続きの言葉を突き刺す。


「あんただってあたしを殺しただろ」


 大きく見開いている両眼の、小刻みに揺れる視線を逃がさないように、こちらからも見つめ返す。瞬きひとつも許さない、鼠を追う猫のような鋭い目つきで。


「あたしは別にママのことを死なせたくて生まれてきたわけじゃない。でもあんたは自分の意志で、殺意をもって手にかけた。それも、何も知らないままのあたしをだ」

「だっ⋯⋯だったらなんだ! 祟り殺しでもする気か? やってみろ、俺には加護がついてる!」


 こんな状況でもまだ虚勢を張れる根性に感心させられながら、あたしは見下ろしていることを強調するために、目線だけはそのままで顔を遠ざけ姿勢を元に戻した。


「祟るって⋯⋯そんなことができると本気で思ってるわけ? か弱くて無力なこのあたしに? 冗談でしょう。それにできたとしても、あんたなんか殺してやんないから安心して」

「ああ⋯⋯?」

「その代わりと言っちゃあなんだけど、あたしにできることがあるとしたら、ただ〝見ている〟だけ。あんたがどこにいても、何をしていても」


 もちろんこれもブラフで、本気でするつもりなんか毛頭ない。だってこんな奴見ていても、何も面白くないもの。あたしが本当にしたいのは、こいつの禿げた頭の中に亡霊あたしという存在を強く植え付けること。姿は見えずとも、意識せざるを得ない精神状態に追い込むこと。


「寝ている時も、便所で用を足している時も⋯⋯ずっと、ずぅ──っと、すぐ傍であんたのことを見ているわ。この後あたしは消えるけれど、せいぜい見えない影にビクビク怯えながら余生を過ごすことね」


 パパの脳裏にこびり付くような言葉を、慎重に選びながら突きつける。淡々と、粛々と⋯⋯五寸釘を、藁人形に打ち込むように。


「でも感謝してることもあるのよ。あたしがこんな状態になって、痛みもあんたに対する恐怖心もなくなって、それどころか新しい自分まで発見できたんだから。ほらあたしの、パパだって見たことなかったでしょう? だからね」


 覚えたばっかりの、満面の笑顔で伝える。


「殺してくれてありがとう、パパ」


 能力を解除すると、全身から黒い粒子のようなものが噴き出し、それは空中へと散らばるとすぐに消えてなくなった。


 それと同時に、眼下のちっぽけな男は慌てた様子で激しく首を振り部屋中を見回し始めた。どうやらあたしはまた、幽霊の状態に戻ったらしい。やはり、成仏はできないまま⋯⋯いや、これでいい。既にあたしの目的は、次の段階へと切り替わっている。


 男は両の手のひらと膝を床にらせながらタバコの箱と携帯電話を拾うと、再び部屋の奥の方へ這ったまま移動した。


 そしていくつか操作したのち携帯電話を片方の耳と肩で挟むと、タバコを一本咥え、震える手で火をつけながら僅かに開いた口の端っこからしきりに情けない声を漏らし始めた。


「⋯⋯いお⋯⋯いおぉ!」


 と、ついに気が狂ったのかと思えるくらい内容はよくわからないものだったけれど。


「あ」


 今のこいつがこの精神状態で電話をかける相手は誰かと想像したら、ひとつ忘れ物をしていることに気がついた。それは──


「宗教のこと、聞いてなかった⋯⋯」


 とは言っても、今から再び姿を現しても格好がつかないし、そもそも同じ人間の意識に二度も入り込めるのかという能力への疑念もある。奴はまた背中をぴったり壁にくっつけていて、黒い毛玉の存在も確認できない。能力解除直後もどさくさで見落としていたし⋯⋯。


 どの道、最後に感謝を伝えて奴の前から姿を消した時点で、あたしは自立したも同然。そして親元を離れて旅に出るのだから、そんなことで後ろ髪を引かれている場合ではない。


 それによく考えてみれば、あたしの今後の目的において宗教という存在は、意に介する必要の全くない雑音ノイズなのだから、結果的にこれはこれで問題ないわ。


 なぜなら宗教っていうのは、本来寄る辺ないはずの衆愚が現実逃避の果てに創り出す蜃気楼のようなもので、ちょうどすぐそこで喚き散らしているクソ親父のようにまやかしを信じ続けることで救われた気になっているだけのくだらない連中だもの。


 でも気持ちだけでも救われているのであれば、いずれ破滅することになるとしてもその時までは確かに幸福なのかもしれない。必要とする者がいて、条件に見合う場所があるのなら、そこがどんな伏魔殿だったとしても足を踏み入れてしまう、と。


 いずれにしたって、そんな風に絶望をくだらない希望なんかで中和させようと思考停止する人間に興味はない。あたしが求めるのは、闇の中に生き、もがくほど深く昏い底に沈んでいくような、不幸な人生。あたしなんかよりもずっと遥かに、『救いのない物語』。その持ち主──いや、主人公を探し見つけ出すことこそが、次の目的。


 さっきみたいに通話を盗み聞きしても新しい情報を得られるとは限らないし、あたし自身が追い詰めたとは言えこれほどまでにみっともない肉親の姿なんてもう何分も見ていられないわ。


 今なお発狂し続けている奴を尻目に、あたしは前へ進む。「さようならパパ」と、それだけ言い遺し、当たり前のように部屋の扉をすり抜けてその場を後にする。もっとも、この別れの言葉はもうあいつには届かないけれど。


 思えばこの能力は、せっかくの門出を誰にも祝福してもらえない可哀想なあたしへの、神様からのささやかな賜物だったのかもしれない。


 ──そうだわ、名前をつけましょう。同じ病気でも、正体がわからないまま養生するより病名が判明している方が安心できるじゃない? だからこの異能、超常にも名前が必要だわ。不安というわけではないけれど、その方がから。


 ただ、名前を考えるってだけのことで何度もこねくり回すのもカッコ悪いから、最初に思い浮かんだものにするわ。たとえば、そうね⋯⋯『ダンサー・イン・ザ・ダーク』とか。


 うん。咄嗟に思いついたにしては、なかなかいいんじゃないかしら。それなりにぴったりだと思うわ。人は誰しも大なり小なり、闇を抱えて生きている。これからあたしは積極的にの中に飛び込んで、一番近くで『救いのない物語』を見届けるのだから。


 あたしよりも不幸な主人公に、いつ出会えるかはわからないけれど、今から楽しみで仕方がないわ。そんな物語が見つかる時まではまあ、幽霊として自由を謳歌しながら、ゆっくり過ごすことにするかしら。

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救いのない物語 十一三 @tsunashi13

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