第二話「ダンサー・イン・ザ・ダーク その①」


「連絡遅くなってすみません。なかなか一人になるタイミングがなかったもんで」


 あたしがこの部屋の前で尻込みしていたのは、おそらく二、三分ほど。その間にパパは携帯を耳から離しては操作し、また耳に当てるといった動作を何度か繰り返していた。相手方の都合か電波が悪いのか、繋がるのに少しばかり手こずったようだけれど、ちょうどさっき通話が始まったらしく、顔に似合わない敬語を遣って話している。


『⋯⋯て⋯⋯⋯たね』


 電話越しに聞こえてくる女性の声は、内容こそこの位置からは正確に聞き取れないものの、透き通った高音で物腰も口調も柔らかい印象を受けた。


「いや、そんな。ご教示の通りに行動しただけですよ」


 一方の話している内容しかわからないものだから、いまいち会話の流れが把握できない。でも把握できないなりにも違和感というか、場の空気や雰囲気の異常さがよく


 今のパパは事務的というか機械的というか、とにかく血の通ったような口振りをしていない。公的な姿と言ってしまえばその通りなのだろうけれど、通話相手に対してどこか畏れのような感情を抱いているようにも思える。それに少なくとも、こいつは今身内──それも血の繋がった実の娘を亡くした親の顔をしているようには見えない。ただ淡々と、相手方との受け答えを続けている。


「⋯⋯警察も転落事故として片付けてくれましたし、怖いくらい調ですよ」


 しかしさっきから、パパの発する言葉の端々がやたら引っかかるわね。それに、転落事故? あたしの死因は──そうか。中学校の入学式に向かう途中、住宅街を下る階段の半ばから、あたしは足を踏み外したんだわ。そして薄れていく意識の中、最期に階段の下から見上げていたのは、やっぱりパパの顔だった。


 でもその日は、他の子たちが車で送り迎えをしてもらっているだろう中、仕事があるからという理由であたし一人で行くことになっていたはず。実際あたしが家を出る時、既にパパの靴はなくなっていた。


 思った通りだわ。まだ完全ではないけれど、パパの元に来てから、霞みがかっていた死ぬ直前の記憶が、景色が次第に晴れていくのを体感する。そしてまだ断片的でしかないにしても、それらを繋ぎ合わせていくとひとつの事実が見えてくる。


 いや、見えてくるって言うより、再確認できると言った方が正しいかもしれない。この部屋の前に来た時から、既に察していたことなのだから。むしろその直感を確かめるために、あたしはここまで足を踏み入れたんだ。


 だからここは一旦受け止め、飲み込むしかない──たとえ本当にあたしを殺したのがパパだったとしても、今更絶望する心もないはずでしょう。それにしたって、この能無しごときが昼間の住宅街で、殺人なんて大それたことをやりおおせた、そのすべの方が気になる。さっき奴が口にしていた、とやらが関係しているのかしら。


「⋯⋯ええ。に導かれ、娘は安らかに逝きました」


 ⋯⋯〝癒鈴の福音〟か。いつか見た教本の表紙に、仰々しく刻まれていた金文字と完全一致する名称。自動的にこの通話相手は、その団体の人間ということになる。そして⋯⋯そうなのね、パパ。あたしがさっき推察したように、確かに例の新興宗教は関係していた。でも、当たっていたのは半分だけ。素性の知れない教団が人に与える影響なんて、良いもののはずがなかったんだ。


「⋯⋯ありがとうございます⋯⋯そう言っていただけると救われます」


 ──ああ、なるほど。それが、あんたにとっての「救い」だったってわけ。さっき、あたしはこいつが娘を亡くした親の顔をしていないと言ったけれど、もはやそれどころじゃあない。


 最初にあたしがパパを見つけたばかりの時、まだ奴の表情はどこか強張っていた。不安か緊張か──なんにせよ、焦りのようなものが窺えるほどに。


 ただそんなものは、今の通話が始まってから相手方との声のやり取りを続けていく中で、徐々に払拭されていった。いやそればかりか、心から安堵しているようにすら思える。


 だってこいつは、今。あろうことか──笑ってやがった! 幾度となく目にしてきた、不細工な作り笑顔なんてものじゃなく。あたしにも一切見せたことのなかった、笑みを浮かべてやがった!


 いや、ちょっと違うわね。あの時⋯⋯階段の下で死にゆくあたしを見下ろす時も、同じように笑っていた。今の今まで思い出せなかったけれど、間違いなくこいつは血色の悪い歯茎を剥き出しにしていた。


 でも驚いたわ、あんたもそんな風に笑えたなんて。多くの人間を観察してきたからわかる。それが心からの笑顔だって。

 つまり、さっきまで顔面に貼り付けていた硬い表情は虚仮こけ。計画を実行した直後は達成感なり開放感なりで正直な反応リアクションをしてしまったのだろうけれど、時間が経つにつれ、そして組織と連絡を取るタイミングが作れない状況の中で、孤独に苦悩することもあったのでしょう。


 ただしそれは後悔でも自責でもなく、本当に真実を闇に葬り去れるのかという疑念。あたしはこれまで、通話相手が話している内容をほとんど聞き取れていなかったけれど、おそらく彼女の口車によって、パパの抱いていた不信感はきれいさっぱり取り除かれたんだわ。それさえなくなれば後は、笑うだけ⋯⋯ってこと。


 生前、あたしが現状維持を望んだのは、救われるのならパパと一緒じゃなきゃ意味がないと思ったから。だから寄る辺もなしに、じっと耐えてきた。なのにこいつは、一人で救われることを選んだ。


 いや──本当は宗教の存在を知った時からわかっていたはずだ。救いようのないほどに、パパが自分本位だってこと。なのに、心のどこかで期待してしまった。ほんの一角、一隅でも。娘の死を悲しむ心を取り戻しているかもしれないなんて、そんなしょうもない妄信のために真相に飛び込んで、無意味に傷ついた。


「バカね」


 自嘲のつもりで呟いたそれは、目の前でみっともなくヘコヘコしているパパの耳には届かない。いや思い返してみれば、あたしの言葉をこいつが聞き入れたことなんて、生きている間さえなかったわ。無我夢中であたしを殴っている時は特に。


 なんでそんな奴信じちゃったのよ、もう。本当にバカみたい⋯⋯ううん、だとしてもあたしはんだわ、実の父親だから。どれだけ非合理でも感情論でも、簡単には切り捨てられない。血縁という呪い。


「⋯⋯ええ、ご心配なく。保険会社には既に書類を出してあるので、程なくして振り込まれるかと。はした金ですが⋯⋯」


 少し前まで臓物を圧し潰されているかのような表情カオと声色をしていたのに、今となってはすっかり晴れやかに、自らが手にかけた娘の命を金に置き換えて喋っている。


 〝教祖様〟のありがたいお言葉に、勝手に救われた気になって、易々と金銭を献上してしまう。その為になら、手段だって選ばずに。熱心な信者⋯⋯なるほど、絶好の金ヅルってワケ。


 あたしは別に、パパがあたしを殺したってだけのことならなんとも思わなかった。愛されていないのは分かりきっていたし、「虐待の末事故に見せかけて殺した」なんてどっかで聞いたことあるような物語ストーリーなら、パパも一緒に闇に堕ちることになるから。


 でも現実はそんな単純ではなかった。

 パパは自分ひとりが救われるためだけに、組織ぐるみで殺人を計画・実行し、事もあろうにその重大さ、罪を背に明るい未来をまっすぐ見ている。


 もちろんそれは本当の意味での救いじゃない。本人はそう信じてやまないのだろうけれど、傍から見ればまやかしもいいところ。でもあたしにとっちゃその真贋なんてどうでもいいのよ。問題なのは、パパがあたしを独りで闇に突き堕としたこと。何も知らない娘を、自分の利益のために利用したこと。吐き気を催す邪悪。


 ──と。もう大体のことは思い出したから特に気にしていなかったけれど、まだ通話は続いているみたい。こっちももう連絡すべきことは話し終えたのか、他愛のない雑談に花を咲かせている。


 これ以上余計な情報が入ってこないように、両手で自分の耳を塞ぐ。そして一度は繋ぎ合わせた、死ぬ直前の記憶の断片たちを再びバラバラにし、そのはざまを想起しようと試みてみる。


 そう──思い返してみればあの時は真昼間だったにも関わらず、やけに住宅街は閑静で、人も車も滅多に見なかった。でもこれに関しては教団が根回ししたということで一旦は納得する。どんな手段を用いて人払いしたのかとか、団体がどれほどの規模でどれだけこの地域に根付いているのかなどは想像もつかないけれど、とにかくそういうことも可能ってことでしょう。


 そして当時のあたしはこの異常に一切疑問を抱かず、最短の経路ルートで中学校に向かい、その通り道にある階段で事は起こった。


 家屋と家屋の隙間に造られたその階段は二十段ほどで、踊り場はなくまっすぐ道路に繋がっている。幅は二、三人が同時に通れるくらいの狭さだから、向かいから別の利用者と入れ違いになる時なんかは自動的に視界に入ってくる──ああそうか、それだわ。


 あの時も階下から上ってくる人がいた。その人物は四月半ばの昼間にも関わらず厚手のコートを纏っていて、フードを目深にかぶり顔を伏せていた。

 あまりの不審さに目を引かれながらも、あたしは気持ち程度に彼とは距離を取り、階段の端っこを下り続けた。


 しかしいざすれ違うというその刹那、突如として顔を上げた彼の正体──先に仕事へ出掛けたはずのパパをそこで初めて認識し、すぐ真横を通り過ぎていく奴を凝視したまま振り返った──時には既に、あたしの身体は宙に浮いていた。とん、と肩を軽く押されただけだった。それだけであたしはいとも容易くバランスを崩し、後ろ向きに倒れるように足を踏み外した。


 何度も追想していたように、ゆっくり遠ざかっていくパパの顔は笑っていた。醜く歪んだ老け顔でもはっきり分かるくらい、本心からの満面の笑みだった。


 それから後頭部の割れる重く鈍い音が聞こえたと共に視界は静止し、間もなくあたしは絶命した。

 息絶える直前に遠くで「大丈夫!?」と女の声が何度かしていたけれど、おそらく教団の人間でしょうね。今際の際まであたしの視線はパパに釘付けになっていたから、その先を辿らないのは不自然だし、辿っていたなら証言してくれているはず。にも関わらずあたしの死は転落事故と片付けられた。確実に助からないよう救急への通報を意図的に遅らせる為といったところかしら? まあ、彼女の役割はどうでもいいわね。


 ともかく、奴らは女子中学生ひとりを秘密裏に葬る為だけに、ここまで用意周到な計画を企て、物の見事に遂行させた──それがあたしの、黒江萌倖の死の真相。


 ⋯⋯で、こんな茶番ものを見せられるためにあたしは、幽霊にまでなって現世に留めさせられたのかしら? 元々、あたしに未練なんかないはずだったのに。この現象が起こったことの意味を、そこに働いた何らかの意志を、未だわからないままでいる。


 いやそれどころか、謎が深まっただけだわ。未練がないなりにあたしは仮の目的を立て、それを果たすために動き、そしてそれはたった今達せられた。にも関わらず、あたしは天国に行くことも成仏することもできずここに立っている。


 あるいは、この世界そのものが地獄だっていう大掛かりなだったりして。もし本当にそうなら、あたしは永遠に近い時間この世をさまようことになってしまうから、笑えないけれど。第一、なんであたしが地獄に堕ちなきゃいけないのよ。ただ普通に生まれて、普通に生きていただけなのに。


「どうして!? どうしてよ、神様!」


 思わず天井、いや遥かその先の天上に届けるつもりでめいっぱい、生前に出したこともなかったような声を張り上げた。この行動に意味なんかないことは、今まで散々思い知らされている。それでもあたしにはこうするしかできないし、こうせずにはいられなかった。


 そしてわかっていても、起こした行動に対しなんのレスポンスもないまま変わることのない現状に、経過した時間の分だけ絶望することになる。


 ここまであたしは目的のために何度も自分を鼓舞し、騙し騙しでも何とか前に進んできた。そんな思いで真実にたどり着き、無念を晴らしたその先には、また別の無念があるだけだった。終わりのないマラソンゲームってやつかしら。なるほど確かに、とんだ地獄だわ。


 もう限界だった。気づけば立つ気力をも失い、その場にへたりこんでいた。喫煙室の床に手をつき、思い切りうなだれながら。


 「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている」というフレーズを思い出す。それを言葉通りに捉えるほどあたしも馬鹿じゃない。ただ、頭上の照明を背に受けているのだから今眺めているこの床にはあたしを象る影ができるはずなのに、覗き込むべき深淵かげがないものだから。そしてそれがないということは、逆──誰も何も、あたしのことを見ていないということ。覗いていないということ。今一度、強く噛み締める。あたしはこの世界の、どこにもいない⋯⋯と。


 不意に、視界の隅を影が横切った。どうやら通話を終えたらしきパパが、この部屋を後にしようと扉に向かうところだったみたいだわ。なんとなく、その足取りは軽そうに見える。不安も心配事も消え去って、新しい人生のスタートラインを発とうとしているかのような、そんな足取り。


 冗談じゃないわよ⋯⋯と、声に出しかけて思いとどまる。もうこれ以上、自分の非実在を意識したくなかったものだから。でも冗談じゃないのはほんとにそう。今までの所業を考えれば、あたしとあいつの立つべき位置は本来逆のはず。なのになんであいつが明るく前を向いていて、あたしが薄暗い地べたを這いつくばってるのよ。


 もうあたしに、奴の後を追う意志も気力も残っていない。だけれど、いやだからこそ、恨みつらみ、憎しみに怒りとあらゆる負の感情を込めた眼差しでその背中を、禿げた後頭部を見送ってやる。


「⋯⋯え?」


 視界の中に違和感を覚え、間抜けにも声が漏れてしまう。違和感──いや圧倒的な存在感を、は放っていた。


 ついさっきまで、パパはこの喫煙室の奥の壁に寄りかかりながら通話をしていた。、最初からあったのに位置的に気づかなかったのか。それともたった今突如として出現したのか。パパの後頭部から数センチ上に離れたところを浮遊している、この糸くず⋯⋯いや毛玉かしら? 何だかわからないけれど、じっと見ていると意識が吸い込まれそうになるような黒い塊。


 そしてその塊はパパの顔の向きが変わる度に都度連動して、パパ本人の肉眼では決して確認できない死角──すなわち後頭部の付近にぴったりくっついて離れないでいる。


 得体の知れない物体。でもあたしはなぜだか、これがで、どういう風に使かがわかった。確信さえ抱くほどに。生まれたばかりの赤ん坊が、誰に教わるわけでもなく呼吸の方法を知っているかのような、本能にも近しい感覚。


 きっとこれは見えていなかっただけで、最初から誰にでもあるものなんだわ。もちろんあたしにも⋯⋯ただしこのとおり常に死角についているものだから気づくことはないし、当たり前だけれど、他人のそれも見えることはない──本来は。


 あたしは感覚で理解したこの能力チカラの使い方を確認するために立ち上がり、今まさに喫煙室のドアを開けようとしているパパの元へ駆け寄る。


 そして一思いに黒い塊を手繰り寄せると、それは一本の糸に解れ、あたしの指先から全身に渡って刹那のうちに巻き付いたのち、まるで粉雪がアスファルトに溶けていくように見えなくなった。

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