第一話「イカロスと少女」
現在、
──パパも、ここの社員だ。けれど、その姿は見当たらない。
いや、考えてみれば当たり前かしら。娘が死んだのだから仕事は休んでいるはずだし、今日もスタッフとしてではなく
パパのことだけを探していたから気づかなかったけれど、どうやらおじいちゃんもまだこの式場には来ていないみたいだし、自然と言えば自然。
とはいえ、すぐ近くには来ているはず。もっとも、自宅からこの店舗まではさほど遠くはないから、既に建物内にはいるのかまだ到着していないのかはわからないけれど。それに、あたしは何時からこの式が始まるのか、知らないし興味もない。
⋯⋯いえ、そもそもの話、まだ状況を理解できてすらいない。実のところ、あたしは今とても動揺しているわ。夢か現実か、願わくば前者であって欲しいところだけれど、あたしの経験と知識からでは到底再現できない情報ばかりが視界でひしめくものだから、そっちの線は早々に諦めた。
ただ、それはそれで受け入れられている自分もいる。元より人生に対しては消極的だったし、いつこうなっても構わないって、そういう気持ちで常にいたから。
だから、未練も後悔も残らないように生きてきたのに。事実、そんなものはないはずだったのに。
──なんであたしはまだ、ここにいるんだろう。
祭壇に向かい、棺の小窓から覗かせているあたしの死相に目を落とす。相変わらず、綺麗な顔立ちをしているわね。まつ毛は長く、鼻は小ぶりで、黒髪は新品の書道筆のようにさらさら。死んでなお、その美貌は一縷の翳りも見せない。集合写真なんかで浮くほど元々白かった肌は、微かにあった血色をも失い、これで完成した美術品だとでも主張しているかのような、そんな錯覚に陥るほどまでに磨きがかかっている。
ただ、自分の亡骸を目にしながらもうひとたび思考を巡らせても、まだあたしは今の状況に対しての心当たりが見つけられていない。中学校の入学式の日、ひとりで家を出たところまでは覚えている。でもその先を思い出そうとすると、次第に霞がかかったように、記憶の解像度が下がっていく。そして気づけばこんな風に、自分の葬式の準備に立ち会っている。
「どうして……」
思わず声に出していたのを自覚し、即座に辺りを見渡す。けれど、誰もこちらをちらりとも見やしない。そりゃそうかしら、幽霊だものね。
誰にもあたしの姿は見えないし、声も聞こえない。こういった些細な情報のひとつひとつが、鋭く深く確実に、死んだという実感となってあたしに突き刺さる。
そしてそれは同時に、疑問にもなる。あたしはこんな世界に未練も後悔も、やっぱり残ってなんかいないし、だから幽霊になる理由はないはず。死んだことに気づいていない、というのも違う。自分の葬式が行われる光景を真っ先に見せられれば、どんな馬鹿でも理解するでしょう。もう少し幼ければあるいは、この事象の意味がわからないこともあるかもしれないけれど。
自分の亡骸に視線を戻し、額の辺りに手を伸ばしてみる。昔何かの映画で観たように、このまま
そんなふざけた発想も、水面に突っ込んだように指先があたしの狭い額に沈むのを確認すると、すぐさま思考の中から振り払われていく。そしてそのまま手を握ったり開いたりして、何かに触れることも掴むこともできないことを認識する。これでまたひとつ、実感してしまった。あたしは──黒江萌倖はやはり、死んだのだと。
本当に、なんであたしはここにいるのかしら。神様か閻魔様か、幽霊として現世に留まらせる
相変わらず、死ぬ直前までの記憶は空白のままだし。どこで、どんな風に死んだのかも──
「パパ」
またもや無意識に声を出し、はっとする。何か思い出したわけでも、心残りを思いついたわけでもない。ただ、どこか近くにいるはずの
それに、まんざら無根拠ってわけでもない。死んだ時の状況は未だに思い出せないけれど、それよりもっと前──ここ二、三週間の出来事だとか、あるいは卒業式が終わった直後辺りから起こった、身の周りの変化についてはしっかりと覚えているわ。
外に出る用事がなくなって、必然的にあたしが家にいる時間は長くなった。にも関わらず、パパのあたしに対する暴力や暴言は増えるどころか、ぴたりと止んだ。
改心したのか、悪巧みをカモフラージュするためにわざわざそんなことをしていたのかはわからないけれど、一見瑣末に思えるこの変化が、今のあたしからしたらとてつもなく気味が悪いというか、とにかくあたしの関知しないところで、パパに転機をもたらす
それでいえば、あたしはパパが入信している新興宗教について、どういう組織なのかとか、何が行われているのかなどの詳細を一切知らない。あたしが見たのは、団体名らしき文字が刻まれた教本の表紙と、鈴のついた胡散臭い数珠だけ。
ひょっとしたらこの教団がパパに良い影響を与え、その結果暴力がなくなったのであって、あたしの死とは全くの無関係かもしれない。だとしたら、妻に続いて一人娘を亡くしたあの父親はその現実を悲しむ心を取り戻しているのだろうか。
そんなことを考えているうちに、あたしの足は自然とホールの外に向かい歩きだしていた。未練とはきっと、パパのことなのだと。あの人があたしのことを実際のところどう思っていたのか、最期の最後にそれを確認するために
どのみち、自分の葬式なんかに用はない。だって、それは遺された人達のためにあるものでしょう。もとより、あたしがこの場に居座るべきではない。
でも最後に、あたしは祭壇に安置されている棺を一瞥した。これから一連の儀式を経て灰になる
こうしてあたしは正式に、自分の肉体と決別した。
よく考えてみれば、確かに無念ではあったかもしれない。だってあたし、まだ十二歳よ? ⋯⋯悔しいに、決まってるじゃない。
その場を去りながら、下唇を強かに噛み締める。
微塵も出血せず痛みすら感じない現実に、ほんのちょっぴり絶望した。
✕ ✕ ✕
これからパパを探すにあたって、ひとつだけ心当たりがある。
あたしは早々に場内図を見つけると、ある一室に目星をつけ、今度はその場所を目指して無駄に広い建物内を突き進み始めた。
パパは生粋のヘビースモーカーだった。あたしの食事や服に回すお金が大して残らない程に、どうしようもなく。飽きもせず律儀に毎日毎日、いくつもの空き箱を重ねていた。
もし既にパパがこの式場に到着しているんだとしたら、あのろくでなしは待合室よりも、喫煙室にいる公算が大きい。そしてどうやらこの葬儀場は、地下一階にしか喫煙室がないらしい。
正面玄関横の階段から階下に下りると、無駄に数の多い待合室が連なる通路の、奥に目をやる。ひとつだけ壁がガラス張りになっている部屋を見つけると、そこが喫煙室だと確信し歩を再開した。
瞬間、その部屋の扉が開き、思わずぴたっと立ち止まる。⋯⋯もしかしてパパ? しかしそんな逡巡も、部屋の中から姿を現した見覚えのない人物によって否定される。
彼は足早に喫煙室を後にし、あたしの横を通り過ぎる。この階層の待合室はどこも人の気配が全くない。きっとこの人の戻る先も
どうでもいいことを考えているうちに、さっきのおじさんが開けっ放しにして行った喫煙室の扉が、速度を落としながらひとりでに閉じていく。しかし完全に閉まりきる直前、内側から押し返す手がひとつ。このあたしが見間違うはずもない、幾度となく振り下ろされてきた、醜く浮腫んだパパの手が。
パパは喫煙室の扉を片手で支えながらおもむろに顔だけ出すと、何度か首を振って周囲を見回した。何かを探している⋯⋯? いや、万引き犯のようなこの挙動不審さはどちらかというと、周りに目がないかを確認している感覚の方が近い気がする。
念入りに、この階層には今自分以外誰もいないことを確認し終えると、パパは体の向きはそのままで、巻き戻るように扉を閉じながら喫煙室の中に後退した。
でも残念、生者であるあなたが認識できるのは同じく命ある生者のみ。あたしのように死んで幽霊になった者は霊感でもない限り、どれだけ目を凝らしても視えないはず。
そしてわざわざ周りに誰もいないか確認したということは、なにか人に見られたくないものや聞かれたくない話があるってことなんじゃないかしら。
あたしは駆け足で喫煙室の前まで来ると、まずガラス越しに中の様子を窺ってみる。するとパパは奥の壁に寄りかかりながら、手に持っていたタバコの箱を喪服のポケットにしまうと、代わりに携帯電話を取り出し、いくつか操作したあと耳に当てた。
このタイミングで電話? いったい誰に? 今直接話せる相手じゃないってことは、少なくとも親族ではない? ⋯⋯いや、どれだけここで疑問符を連ねたって、壁一枚挟んだこの場所じゃ大して話の内容が入ってこないし、いつまでも確認できないまま尻込みしてちゃ意味がない。
なのになぜかあたしの足はすくんで、たった一歩先の部屋に入ろうともしない。
──いや、なぜかじゃない。本当はわかっている。少しずつ思い出してきた、最悪の真実。さっき見たパパの顔が、あたしが息絶える直前に見上げていた顔と
「死よりも怖いものはない」って、誰かが言っていた。あたしはその言葉を信じたことはない。実際に死んだ今でも疑っている。
だって本当にそうなら、既に「死」を経験した今のあたしに怖いものなんてないはずだもの。そんな
本当に怖いのは、死ぬより怖いのは、「現実を見すぎる」こと。「真実を知りすぎる」こと。翼を得たイカロスが、太陽に近づきすぎたために死んでしまったという逸話のように。
あたしは他所の幸福な家庭を知らなければ、自分が不幸だなんて思うことはなかった。図書室の先生が他の子と涙する姿を見ていなければ、彼女に失望することはなかった。
知りたくないこと、知る必要のないこと。そういう物語の裏側は、現実じゃあ嫌でも目に入ってくる。だからあたしは文字で書かれている事実だけ見ていればいい、
そうね⋯⋯もうこれ以上、知る必要ないんじゃない? あたしの物語は死んだ時にもう、終わっているはずなんだから。そこにどんな裏事情が、救いがあろうとなかろうと、終わった人生に関係ないでしょう。それ以上にあたしは、自分の死の真相を知ってしまうのが他の何よりも怖い。
──本当にそうかしら?
結論づける前に、それを否定する自分がいることに気がつく。本当に知りたくないのなら、足を進める勇気が出ないのなら、さっさとここから立ち去ってしまえばいいと。
なのにそうしないのは、無意識に選択肢から消していたから。ここまで来て、退くことだけは絶対にないって思ったから。
もしここで真実から目を背けたとして、あたしはあたしの死に、人生に納得できるかしら? ⋯⋯
納得できなければきっと、あたしは成仏することもできない。そして地縛霊になって、永遠にこの辺りをふらふら歩き回るの? くだらない自尊心のために、クソみたいな
そんなの御免だわ。今わかった。本当に怖いのは、死ぬより怖いのは、知りすぎるより怖いのは──「
イカロスは確かに、太陽に近づきすぎたために死んだ。蝋で固めて作った翼が、太陽の熱に溶かされ飛行能力を失い、墜落死した。
でもこれはきっと、太陽に近づくのが怖いって話じゃない。太陽に近づくと危険だということを知らないのが怖いって話だわ。ただし、この逸話にとってイカロスの死は、単なる結果論。無知以上に彼には、高く高く飛んでいく勇気があった。
今、あたしには彼と違って失う
あたしはあたしを救う──いや、あたしだけなんだ。この無念から、黒江萌倖を救い出せるのは。たとえこの後で、最期の最後にどんな真実を知ることになるとしても、それに向かって進むことを選んだ勇気は消えない。気高い魂で、あたしは成仏してやる。
未だ動けないままでいる自分の足に喝を入れ、一歩先にある喫煙室の、壁につま先を差す。その勢いを殺すことなく、それまでの躊躇が嘘のように、あたしはいとも簡単にガラスをすり抜け、パパのいる部屋に侵入した。
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