救いのない物語

十一三

第一章 黒江萌倖

プロローグ「悲劇的序曲」

 「物語」には例外なく、「始まり」と「終わり」がある。


 「悲劇から始まる物語」が、あっていいかもしれない。

 「悲劇で終わる物語」が、あっていいかもしれない。


 だけれどそれは、最後のページをめくると共に完結してしまう、本の中フィクションの世界だからこその話。

 どんなバッドエンドを飾った作品でも、あと一ページもあれば、大どんでん返しがなかったとも言いきれない。


 でも悲劇として知られる作品のすべては、あえてその一ページを描いていない。シェイクスピアが、ロミオとジュリエットを救わなかったように。

 だからこそ美しく、現代においても多くの人々に愛され、親しまれているのだと、あたしは思う。

 そんなふうに誰かの目に触れることがなければ、物語としてはなんの価値も、意味も成さないのだとも。


 だって物書きである彼らにとって、ホテルやカラオケボックスのような「場所」を提供することこそが、ある種のレゾンデートルなのだから。

 目的を果たせる「場所」があれば、訪ねてくる者がいて当然のはず。休息をとりたければホテルに、歌いたければカラオケに⋯⋯書き手に対し、読み手が存在するように。


 ともかく客人がドアを開いたとき、あらかじめ用意された筋書き通りの世界が始まる。そして開かれたドアは、やがて必ず閉じられる。

 物語せかいの、始まりと終わり。つまるところ、それをもたらすのはいつも読者自身だ。


 ただし結末を見届けた後で、人は余韻に浸る。そんな中で、描かれた物語のその先を想像する。

 もちろん、終わった世界に答えは用意されていない。だからこそ、ある人にとっては救われたりもする。どんなに冗長でも陳腐でも、想い描くだけなら自由だし、誰も文句なんて言わないのだから。


 そんな蛇足が、あえて描かれていない、読者にゆだねられる一ページ。


 特に、あたしはあまり理解できないのだけれど、多くの人にとってはなぜだか、完全無欠よりもどこか欠陥があった方が、それを愛しやすい傾向にあるらしい。空いた穴は埋めようとするし、空の瓶は満たそうとする。でも結局は、そうすることで得られる快感、悦に浸りたいだけなのでしょう。あたしに言わせれば、自慰にも似た行為。


 まあなんにせよ、どんなに後味が悪い作品でも、読者のさじ加減ひとつでいかようにも変化できるから許される。書き手のみならず、読み手がいて初めて完成する世界。

 そう──本の中にのみ存在する仮初の世界、つまりフィクションだからこそ、どんな悲劇も美しい。


 でも、現実リアルは違う。


 ひとりの人間の一生を物語とするならば、始まる前からとっくに世界はあって、それは終わった後も続いていく。

 本の中のように都合よく、ぱたりと終わってくれたりなんかしない。想像の余地など入らないほど、細部ディテールまで完璧に、世界は描かれ続ける。


 例えば少年犯罪の加害者は、がためにあるのかもわからない法に守られ、数年後に何食わぬ顔で社会復帰したりする。被害者の命なんかあざ笑うように。

 そんなものだわ、現実の悲劇なんて。非情で、残酷で、救いようがない。


 そしてそんな悲劇のほとんどは、誰にも見つけられずに終わっていく。


 もしもアフリカの子供たちを救うワクチンが今すぐ百万個ほど用意できたとして、どの百万人が選ばれるのか、という疑問がある。

 実際の仕組みはあたしの知るところではないけれど、選ばれるのが用意してあるワクチンの分だけということは、それ以外の子供たちは見送られることになる。

 次のワクチンを待つ間に死んでいく子供がいたところで誰も知らないし、もっと言えば、救ったあとの子供の人生にも実のところ誰も興味はない。生き永らえる為に辛酸を舐めようが人知れず野垂れ死のうが、知ったことじゃあない。無責任に、無作為に人は人を救い、多くの日本人の胸には百万人の子供たちを救ったという美談だけが残る。


 物語は誰かの目に触れることがなきゃ意味がないのに、ゲイシーとかチカチーロみたいな猟奇殺人者シリアルキラーにでもならなければ、一切語られることはない。ともすれば、そういう風に悲劇が悲劇を生む結果にすらなりうる。

 そしていずれ誰からも忘れられ、人は二度目の死を迎える。


 世界は進む。


 知りたくないことも、知る必要のないことも描き続けながら、終わった人生ものがたりになんて見向きもしないで進んでいく。

 「悲劇で始まる物語」も「悲劇で終わる物語」も、本の中フィクションだからこそ美しい。


 だけれど人生に置き換えてみたらどうでしょう?

 どうせ誰にも見つけてもらえないなら、悲劇を演じさせられることに意味はあるの? 続く世界に救いはあるの?


 多分、どちらも答えはNOだわ。語られることのない悲劇の人生ものがたりに、やっぱり価値なんてないし、人生が終わった先の世界に救いがあろうとなかろうと、主人公ほんにんが死んでしまっているのだから関係ないもの。


 だからね、この世に悲劇のような人生を送る人間なんて、いない方がいい。

 みんながみんな、幸せであることが、この現実世界の目指すべき、最も美しい姿であるはず⋯⋯だなんて。

 そういう前提で考えてみたけれど、やっぱり片腹痛いわね。


 だってあたしはそんな綺麗事コト、本当はこれっぽっちも思っちゃいないもの。


     ✕ ✕ ✕


 あたしね、けっこうのよ。

 同級生と比べて雰囲気は大人っぽい方だと思うし、顔つきもかなり整っているから。

 これはきっと、物心つく前には他界していた母親の遺伝子が強く現れた証であり、あたしの人生において唯一にして最大の幸福。

 

 そう、優れた容姿で生まれてくるのは幸福なこと。それは間違いない。反感覚悟で言わせてもらえば、人によっては詰みの要素になりかねないくらい重要な初期手札となる。

 事実、あたしはこれまでの十二年間、この顔によって不利益を被ったことは一度もない⋯⋯多分。

 強いて言うなら、父親の暴力から顔や貞操を守るのに、ちょっぴり苦労したことぐらいかしら。


 そうね⋯⋯もしもあたしがこの父親に似た不細工なツラで生まれてきていたとしたら、それこそ詰んでいたわ。

 クラスの男子にチヤホヤされたり、放課後の図書室に居座っていた先生と仲良くなったり、そういう風に自然に人と触れあう機会も、あたしがかわいくなかったらなかったはずだもの。


 そして人との触れあいは、自分ひとりでは気づけないような発想を人生に与えてくれる。二人称視点で対照的に視るからこそできる発見をしてくれる。


 優れた容姿で生まれてくるのは幸福なことだと、あたしはさっき言ったけれど、真の意味での幸福はここのところだと思う。

 他者ひとと関わる中で気づき、学び、知見を広げ深めること。そうやって人生を豊かなものにするために、自分という人間を視てもらうことにこそ意味がある。物語が、人に読まれることで初めて意義を成すように。


 そしてあたしのようにかわいければ、自然と周囲に人は集まるし、その分人間関係の構築は比較的容易になる。

 だからあたしはわりかし早い段階で、普段から抱いていた自分と周りへの違和感の正体にたどり着くことができた。


「黒江さんって、あまり笑わないよね。てか見たことないかも」

 ある時、ひとりの男子が放った一言。彼の顔も名前も声も匂いも、ちょっとよく思い出せないけれど、その言葉だけははっきりと覚えているわ。一字一句完璧にね。


 当初はその言葉に納得ができなかった。だって、他の子たちが笑っている時、自分も同じように笑っていると思ってたから。

 みんなが笑っているってことは、それは笑うべき場面であるはずだし、つまりあたしも一緒になって笑っていると思うのが自然。あたしにとって、そこのところを疑うなんて、思いつくこともなかった。


 だから逆に、あたしがそれまで普通だと思っていたことを疑ってみたわ。新しい発想を頭の中にブチ込んで、思考の幅を広げる。そこまでしてようやく、自と他の違いに気づくことができたの。


 いくらかわいいとは言っても、あたしだって自分しか視ていなかったわけじゃないから、「笑顔」というものがどんなカタチなのかはわかる。けれどどんなにそれをつくってみようとしても、どういう風につくればいいのかがわからなかった。ただ、それはそれでひとつの収穫とも言える。ひとまずあたしはこの時点で、自分がその感情の出し方すらわからないということを知ることができた。


 学校で勉強することはみんな同じ。あたしもクラスの子たちも、感情について誰から教わったわけでもない。けれどあたしだけが、笑い方を知らない。鏡の前に立って「笑顔」を再現しようとしても、どの筋肉を動かせばいいのかわからないし、人差し指で無理に口角を吊り上げても、かわいくてきれいなはずのこの顔がなぜだかうす気味悪く、不自然なものに見えてしまう。


 不自然⋯⋯そう、自然じゃあない。みんなはさも当然かのように、白い歯とピンクの歯茎を見せ、喉の奥から声を軽やかに弾ませられているのに、それが自然な笑い方だと理解しているのに、あたしにはできない。


 そこで一度、あたしは思考の対象を変えてみた。なぜ自分が笑えないのか、ではなく、なぜ他の子たちは自然に笑えるのか、という方向性で。そうすると必然的に、新たな謎が生じる。そもそも、彼らにこんな疑問を抱いているのは、あたしだけではないのか、と。


 あの時ある男子に指摘されるまで、自と他の違いに気づくことができなかったように、いやそれ以前に疑うことを思いつきもしなかったように、きっと彼らも、なぜ自分が誰かに教わったわけでもなく自然と笑えるのかなんて、考えたこともないのではないか、と。


 そう考えたら、なんとなく合点がいった。当たり前のことを疑うなんて考えつきもしないからこそ自然だといえるのならば、逆に考えれば、のではなく、なんだ、って。

 そう、あたしもみんなも、同じ「自然体」だった。そして発露した貌に違いがあらわれるということは、つまり分岐点はそこにある。


 そこでひとつ、あたしは思考を巻き戻した。


 実際のところ、あたしにとって笑えないのが自然であるのならば、てことはやっぱりあたしだけが、みんなと違って笑い方を知らないということ。


 もうひとつ巻き戻す。勉強することはみんな同じなのに、誰から教わるまでもなくあたし以外が笑い方を知っていて、あたしだけがそれを知らないということは、そもそも感情というものはわざわざ他人から教わるほどのことでもないのか、って。更に言えば、それは小学生になるまでの段階で既に形成されているものじゃないのか、って。


 というか多分、あたしと他の子たちとのそんな違和感にここまで心当たりがないということは、目に見えないところで差が生まれてるんじゃないかってのはその当時から、さして想像に難くはなかった。

 まあなんというか、考えのまとまっている現在いまの自分なりに言語化するとしたら、感情ってやつは、無意識のうちに周囲の環境や人間から自然に学ぶものだと思うのよ。無垢の赤ん坊が、生まれる前から胎教によって学を授かるように。


 それを踏まえて当時のことを振り返ってみたら、やっぱり面白いくらいに全部が繋がっていくの。

 当時はさすがにまだ、ここまでまとまった考えを持ってはいなかったけれど、当たり前だったことを疑ってみるという意識を常に持ちながら注意して周りを観察していたから、この時点で既に近いところにまでたどり着いてはいたわ。


 ほら、授業参観とか、三者面談とかってあるじゃない。ああいう場面で他の家庭を観たとき、生温い空気が頬をなでるような、そんな違和感に包まれたのよ。明らかに、ウチとは違うって。


 どこの親子も、どうしたってあたしができなかったあの自然な笑顔を鏡のように見せ合っていて。

 あたしはと言えば、あの時鏡に映った猿真似の笑顔が、それはもう史上最低レベルで不本意なのだけれど、自宅ウチではいつも唾を吐き散らかしながら罵声を浴びせてくるクソ親父が外面で見せる醜い作り笑いと、なぜか重なってしまったというか、いや似てるというのとはニュアンス的に違うというのはわかってほしいのだけれど⋯⋯ほら、四国とオーストラリアの形は似ているけれど、中身は全然違うみたいな⋯⋯なんだかうまいこと言い表せないから、これ以上の例えは出さないことにするわ。


 まあでも、それまでの普通をあえて疑ってみるという観点を手に入れたことは、とても大きかったと思う。

 みんなと違うあたしの姿を鏡を通して親父アイツと重ねて、根本的におかしかったのは、他と違っていたのは、あたしではなく父娘関係あたしたちの方だったんだって、ようやくそこで気づけたんだもの。そこまでの過程プロセスを踏んで初めて自覚するなんて、とんだ遠回りだったけれど。


 そりゃあ、自然に笑えないわけだわ。他所の親が子に向けていたような、あんな柔らかい表情カオを父親がしているところなんて、記憶の限り、あたしは見たことがないもの。


 ここまでの話でもうよく理解したと思うけれど、そんな父親があたしの人生において、最大にして最悪の汚点。

 よくもまあ遺伝子の優秀な母親と結婚して子供をつくれたなと思うわ、あの不細工で無駄な肉ばかりついた顔と体型で。おまけに性格も最悪ときた。まったくママは、こんな野郎のどこが良かったのかしら?


 いやもしかしたら、昔は違ったのかもしれない。ママが死んでからこうなったのか、ママが死ぬ前からこんなだったのか。どっちみちあたしの記憶の中の父親はクズで愚かなのは変わらないから、どうでもいいことだけれど。写真もなければ、思い出話を話されることもないし。二人がどんな出会い方をして、どんな風に愛し合っていたかもあたしの知るところではない。


 でも、父親に同情するところもあるのよ。子供と入れ替わるように妻が死んで、失意に沈んだまま男手ひとつであたしを育てることになったんだから。その結果が暴力や暴言、しまいには宗教なんかにのめり込んじゃうもんだから、救いようがないけれど。


 当時はがっかりしたもんだわ。得体の知れない宗教じゃなくあたしがパパの救いにはなれなかったのか、って。そこを頼るにしてもどうせなら、あたしも一緒に連れてってくれたらよかったのに。どれだけ殴られてもどれだけ食事が貧相でも、世間の家庭とのギャップを認識するまではあたしにとってそれが当たり前の父親像だったし、なによりその程度で割り切れるほど、肉親ってのは単純なものじゃないから。


 つくづく、血縁関係というものは呪いだと思うわ。こんなクソ親父でもあたしはパパのことをついぞ嫌いになれなかったし、嫌いになりたくもなかった。厄介なことに多分、人間の子供はそうなるように無意識レベルで刷り込まれている。


 だからあたしはどれだけ自分が普通とズレているのか知ったあとでも、誰にも救いを求めなかった。できなかったんじゃなく、できたけどやらなかった。救われるならあたしだけじゃなくパパも一緒じゃなきゃ意味がないって、そんなワガママを突き通すためだけにあたしは耐え続けた。


 暴力から顔を守っていたのも、綺麗な顔に怪我を負いたくなかったのももちろんあるけれど、虐待を受けていることが周りの大人にバレたらまずいから、という理由も強かった。

 その点、腕とか脚とか背中とか、身体に負った傷はまだ隠せる。それに不自然に大怪我を負ったら困るのは父親にとっても同じことだから、痣が残る程度に打撃は普段から手加減されていたわ。体格差からして、本気で殴られたらひとたまりもないだろうことは子供でもわかるもの。その代わり毎度のごとく、何度も何度も拳を振り下ろされていたけれど。力強くはっきりと、ハンコを押すみたいに。


 そうやって身体中に無数にできた紫色の斑点を、できるだけ包帯で隠して、首から下の肌の露出も最低限に控えることで、あたしは普通の女子小学生に擬態した。袖はできるだけ長い服を。体育の授業も上下ともジャージに、みんなが更衣室を出てから着替えて、必ず見学ということにしていたわ。真夏のどんなに暑い日でも変わらず、徹底して隠しおおせた。


 そんな風に汗臭さや泥臭さとは縁遠い女の子でいたからなのか、単純に顔がかわいいからなのか、その両方が噛み合った結果なのか、とにかくあたしは

 それどころか一部の男子の間で、あたしを笑わせた奴が勝ちなんていう競争のようなものが流行ったぐらいには。


 人の気も、背景も知らないで、彼らはあたしを笑わせに来たけれど、あいにくこちらの心が躍るようなことはなかった。自宅ウチにはテレビやゲームっていった娯楽なんかないし、みんなの話している内容ことなんてさっぱりだもの。


 くだらないコメディアンの真似事なんかされたって、あたしにとってはどこが笑うポイントなのかすらわからない。かといって愛想笑いで誤魔化そうにも、あのぎこちなさじゃ一発でバレてしまう。

 結局、あたしのした反応リアクションといえば、頬杖をついて心底つまらなそうに彼らの芸や話を観て聴いて、根本的に笑いのツボが違うんだと誰の目にも明らかにすることだったわ。まああたし自身、自分のツボも理解できてなかったのだから、笑わせられるものなら笑わせてみろって気持ちも多少はあったかもしれないけれど。


 さながらかぐや姫にでもなったような気分というか、いや彼女ほど無理難題を要求しているつもりもないのだけれど、きっと男子たちにとってはそれくらい、難攻不落に見えていたでしょうね。


 でも人はあまりにも手応えを感じないと、いずれ飽きる生き物。それにあたし一人笑わせたところで、何か報酬リターンがあるわけでもないし、ただの自己満足にしかならないって誰かが気づき始めると、だんだんとそのブームは去っていったわ。

 充分に空気の入っていない球でバスケットをやり続ける人はいない。大して会話の弾まないあたしと話したところで、向こうも面白くはなかったのでしょう。ある時から日を追うごとにあたしの周りから人は減っていき、さほど時間もかからず、そして誰もいなくなった。


 図書室の先生だけはもうちょっと、放課後に一緒に本を読んだり語ったりしてくれていたけれど、程なくして転任が決まって、結局はあたしの傍から離れていった。

 離任式の時、他の女子から花束を受け取っている先生を見て、熱い涙の別れを演出して魅せる彼女たちとは裏腹に、自分の心が冷めていく感覚があったのを覚えているわ。ああ、あたしにだけ優しい先生だったわけじゃないんだな、って勝手に失望した。別にそうであってほしかったわけでもないはずなのに、そういう側面を、片鱗を見せられたことがなんとなく嫌だった。


 そういう不必要な物事が描写されない本は好きだった。どの作品のキャラクターも常に、読者にとっての「そういう人物」だけでいてくれるから。そりゃあ、文字で書いてあることが全てじゃないってことくらいわかっているけれど、少なくとも今本を読んでいるあたしを、不変の存在である彼らだけは、この救いのない現実から抜け出させてくれた。孤独にさせないでいてくれた。


 そんな彼らも、「救いのない物語」の中にいた。あたしがそういう本を選別していつも読んでいたから。悲劇に揉まれる彼らを、その中心にいる、あたしよりも不幸な主人公を観ることが、人生で数少ない安らぎだった。


 できるだけあの家に帰る時間を遅らせるために、完全下校時刻ギリギリまで、あたしは悲しい物語に触れた。当然、卒業の日まで欠かすことなく、毎日のように。

 そうやって同じ日常を過ごしているうちにいつの間にか迎えていた、生まれてから十三回目の春。中学の図書室では、どんな悲劇に出会えるんだろうって、それだけを楽しみにしていた──はずなのに。


 きっとあたしはもう二度と、本を読むことはできない。

 なぜならあたしの人生ものがたりは、文字通り「死」という結末を迎えることで、割れたガラス玉のように元には戻らない、決して修復できない運命に終わってしまったから。

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