『獣の血を引く者 2 』
「お客さん、みたいね」
女性——ミラ・シルヴァーノは、静かに歩み出てきた。
年齢は十九歳と聞いていたが、その佇まいには——年齢以上の成熟があった。過酷な環境で生き延びてきた者だけが持つ、独特の重みとでも言うべきか。
小柄な体躯は、しかし無駄なく鍛えられているのが分かる。露出した腕は細いが、筋肉の筋が浮き出ている。日に焼けた肌、引き締まった手足。動きには無駄がなく、一歩一歩が——獲物を追う獣のように滑らかだった。
そして——金色の瞳。
人間のものとは明らかに異なる、縦長の瞳孔。暗闘の中でぼんやりと光を放ち、こちらを真っ直ぐに見据えている。
狼の目だった。
警戒心と、野生の鋭さ。だが同時に、知性の光も宿している。獲物を見定める捕食者の目であり、状況を冷静に分析する策士の目でもあった。
「……あなたたちの匂い、覚えがないわ」
ミラは鼻をひくつかせながら言った。
その動作は無意識のものだろう。獣人の血を引く彼女にとって、嗅覚は——視覚や聴覚と同等の、あるいはそれ以上の情報源なのだ。
「この街の人間じゃない。遠くから来たわね」
「……分かるのか」
カイルが驚いたように言った。
「当然よ。匂いで分かる。——三日以上、馬車に乗っていた匂いがする。革と、馬と、埃の匂い。それに……」
金色の瞳が、一人一人を見つめていく。
まず、ヴィクトール。
「あなたは——貴族ね。高価な香水の匂いがする。それに、上質な布の匂い。でも、その奥に……」
眉を顰め、首を傾げる。
「……何か、違うものがある。野心の匂い。それと——狂気の匂い」
次に、カイル。
「あなたは——戦士ね。血と鉄の匂いがする。それも、古いものと新しいものが混じっている。長い間、戦い続けてきた匂い」
そして、フィーネ。
「あなたは……インクと羊皮紙の匂い。学者? いえ、違う——研究者ね。手の匂いに、薬品が染み付いている」
最後に、レオンハルト。
「……あなた」
金色の瞳が、大きく見開かれた。
「獣の匂いがする。魔獣の血を浴びた匂い。それも——かなり強い個体の。この匂いは……」
鼻をひくつかせ、更に深く嗅ぐ。
「……B級? いえ、それ以上かもしれない。あなた、何者?」
「……狩人だ」
レオンハルトは短く答えた。
「森で魔獣を狩って生きてきた。——その鼻、大したもんだな。俺が何を狩ったかまで分かるのか」
「大体はね。血の匂いは、個体ごとに違う。あなたの体には——少なくとも十種類以上の魔獣の血が染み付いている」
「……凄えな」
レオンハルトは素直に感心した。
この女の能力は、噂以上だ。数百メートル先の魔獣を感知するだけでなく、過去の戦闘履歴まで嗅ぎ分けることができる。斥候としては——いや、それ以上の価値がある。
「——で、あなたが親玉?」
ミラはヴィクトールの前に立ち、真っ直ぐに見上げた。
小柄な体躯からは想像もできないほど、強い存在感があった。獣の血を引く者特有の——圧倒的な生命力。
「何の用? 私を捕まえに来たの? 密輸の罪で」
「違う」
「じゃあ、何? 私の能力を買い取りに来た? 悪いけど、今の雇い主には義理があるの。簡単には——」
「君を、スカウトしに来た」
ヴィクトールは真っ直ぐにミラを見据えて言った。
「私は今、私設騎士団を立ち上げようとしている。君の能力が——必要だ」
沈黙が落ちた。
酒場の客たちも、息を殺して成り行きを見守っている。カウンターの巨漢も、振り上げた腕を下ろし、呆然とヴィクトールを見つめていた。
ミラは目を瞬かせ、ヴィクトールを見つめていた。予想外の言葉に、反応が遅れているようだった。
「……騎士団? 私を?」
「ああ」
「獣人の血が混じった私を——騎士に?」
「血など関係ない。必要なのは才能だ。君には、魔獣を感知する力がある。それは——私の騎士団に不可欠な能力だ」
ミラは暫く黙ったまま、ヴィクトールを見つめていた。
その金色の瞳には、様々な感情が渦巻いているようだった。驚き、戸惑い、そして——微かな期待。
しかしそれはすぐに、警戒心によって塗り潰された。
「……嘘でしょ」
低い声で、彼女は言った。
「貴族が、獣人を騎士にするはずがない。何か裏があるに決まってる。——私を利用して、そのあと捨てる気でしょ」
「そう思うのは無理もない」
ヴィクトールは静かに言った。
「君は、これまでずっと裏切られてきたからな」
ミラの目が、僅かに揺れた。
「騎士団の入隊試験を受けた。能力測定では最高評価だった。感知範囲、精度、反応速度——全ての項目で、過去の記録を塗り替えた。試験官たちは驚愕し、君を『天才』と呼んだ」
「……」
「だが、最終面接で落とされた」
沈黙が、重くなった。
「『獣人の血が混じった者を、王国の騎士にはできない』——そう言われて。それまでの全ての努力を、全ての才能を、たった一言で否定されて」
ミラの顔が強張った。
「……なぜ、それを」
「調べた。君のことは、全て調べさせてもらった」
ヴィクトールは一歩、前に出た。
「失礼だとは思う。だが——君の才能を、正当に評価するためだ」
「正当に、評価する?」
「ああ。君の能力は、王国騎士団が切り捨てるにはあまりにも惜しい」
ヴィクトールの声には、静かな——しかし、揺るぎない確信が込められていた。
「魔獣の気配を数百メートル先から感知し、その強さや数まで把握できる。過去の戦闘履歴を匂いで嗅ぎ分け、敵の正体を看破できる。——そんな人間は、大陸中を探しても数えるほどしかいない」
「……」
「君は——ここで終わる人間じゃない」
ミラは答えなかった。
ただ、金色の瞳でヴィクトールを見つめていた。その目には、今までとは違う光が宿っていた。警戒心は残っているが——それだけではない。
何かが、揺らいでいる。
長い間、凍りついていた何かが——溶け始めている。
「……一つ、聞いていい?」
低い声で、彼女は言った。
「何でも」
「あなたの匂い——さっき言ったわよね。野心と、狂気の匂いがするって」
「ああ」
「それ、どういう意味か——教えてくれる?」
ヴィクトールは少し考え、答えた。
「私は——この国の秩序を、壊そうとしている」
酒場の空気が、一瞬で張り詰めた。
周囲の客たちが息を呑み、カウンターの巨漢が目を見開く。フィーネは無表情のまま、カイルは薄く笑い、レオンハルトは腕を組んで頷いた。
「壊す?」
「ああ。才能よりも血統を重んじ、実力よりも縁故を優先する——そんな秩序を」
ヴィクトールの目が、真っ直ぐにミラを捉えた。
「君のような人間が、血のせいで切り捨てられる——そんな世界を」
「……大きく出たわね」
ミラは呆れたように言った。
だが、その目は——笑っていなかった。真剣に、ヴィクトールの言葉を受け止めている。
「それって、謀反じゃないの?」
「謀反ではない。革命だ」
「同じことでしょ」
「違う。謀反は、王位を奪うこと。革命は——世界を変えること」
ヴィクトールは手を差し出した。
「私は王になりたいわけじゃない。ただ——君のような人間が、正当に評価される世界を作りたいだけだ」
長い沈黙が落ちた。
酒場の中は、しんと静まり返っていた。客たちは息を殺し、成り行きを見守っている。カウンターの巨漢も、何も言わずにミラを見つめていた。
風が吹き込み、蝋燭の炎が揺れた。
ミラは差し出された手を見つめていた。その目には、葛藤が浮かんでいた。
信じていいのか。
また、裏切られるのではないか。
この手を取れば、何かが変わるのか——それとも、同じ絶望を繰り返すだけなのか。
「……私ね」
低い声で、ミラは言った。
「騎士団の試験に落ちた日、泣いたの。生まれて初めて、声を上げて泣いた」
「……」
「悔しかった。何年も努力して、やっと掴んだと思った夢が——たった一言で、砕かれた。『穢れた血』——そう言われた時、私は……」
言葉が途切れた。
「……自分が、何者なのか分からなくなった」
金色の瞳が、ヴィクトールを見上げた。
「人間でも、獣人でもない。どこにも居場所がない。どこにも、私を認めてくれる場所がない。——そう思って、ずっと生きてきた」
「……」
「だから、ここにいるの。この街の裏社会でなら、血なんて関係ない。能力だけが、価値になる。——それが、私が見つけた居場所だった」
ミラは差し出された手を見つめた。
「でも、あなたは——違うことを言う。正当に評価する、って。世界を変える、って」
「ああ」
「……馬鹿げてる」
彼女は、小さく笑った。
「貴族が、獣人のために世界を変える? そんな話、信じられるわけがない」
「信じなくていい」
ヴィクトールは答えた。
「結果で証明する」
「結果?」
「ああ。私の騎士団は——必ず、最強になる。そして、この国の誰もが認めざるを得ない存在になる。その時——君の価値も、証明される」
沈黙が落ちた。
ミラは差し出された手を見つめていた。
その手は、貴族のものとは思えないほど——まっすぐで、迷いがなかった。
「……あんた、本当に変わってるわね」
低い声で、彼女は言った。
「よく言われる」
「褒めてないわよ」
「分かっている」
ヴィクトールは笑った。
ミラも——僅かに、口元を緩めた。
「……いいわ」
彼女は、ヴィクトールの手を取った。
「あんたの狂気に、乗ってあげる。——ただし、裏切ったら許さないから」
「望むところだ」
「私の牙は、嘘つきの喉笛を噛み千切るわよ」
「君の牙が——私の敵に向けられる日を、楽しみにしている」
握り合った手に、力が込められた。
その瞬間——黒鋼騎士団に、四人目の剣が加わった。
酒場を出ると、夜空には満月が浮かんでいた。
銀色の光が港町を照らし、海面がきらきらと輝いている。潮風が頬を撫で、どこかで船の汽笛が響いていた。
「次は?」
カイルが問うた。
「残りは二人。ユーリ・ヴォルコフと、アルベルト・フォン・ヴァイスハウプト」
ヴィクトールは月を見上げながら答えた。
「ユーリは——東方からの流れ者。諜報と暗殺を得意とする男だ。居場所は不定だが、王都の闇市場に出入りしているという情報がある」
「暗殺者か」
レオンハルトが呟いた。
「物騒な仲間だな」
「必要な存在だ。戦いは、表舞台だけで行われるものじゃない。——影で動く者が、必ず必要になる」
「……闇の世界に詳しいのね、公爵様」
ミラが皮肉っぽく言った。
「詳しくなった。この国の腐った秩序を知れば知るほど——表だけでは、何も変えられないと分かる」
ヴィクトールは歩き始めた。
「そしてアルベルト——元王国軍参謀総長。二十年前の大戦を勝利に導いた智将だ。今は隠居しているが……彼の頭脳は、私の騎士団に不可欠だ」
「……大物だな」
カイルが呟いた。
「元参謀総長って——伝説の人物じゃねえか。本当に仲間になるのか?」
「分からない。だが——」
ヴィクトールは振り返り、仲間たちを見た。
カイル、フィーネ、レオンハルト、ミラ。四人の「異端者」たちが、月明かりの下に立っている。
「——必ず、仲間にしてみせる」
その言葉には、揺るぎない確信が込められていた。
月明かりの下、五人の影が港町を後にした。
黒鋼騎士団の礎は、着実に築かれつつあった。
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