『獣の血を引く者』



森を後にする前、レオンハルトは一度だけ振り返った。


鬱蒼と茂る木々、苔むした岩、獣道すら存在しない原生林——十年以上を過ごした、彼の領域。ここで魔獣を狩り、ここで眠り、ここで生きてきた。人間社会から切り離された、孤独な王国。


「……行くのか」


自分自身に問いかけるように、低く呟いた。


ヴィクトールたちは少し離れた場所で待っていた。急かすこともなく、ただ静かに——レオンハルトの決断を見守っている。


あの公爵は、変わった男だった。


貴族のくせに、護衛も連れずにこんな森に入ってきた。B級魔獣を狩る様を見せろと言い、それを見届けた後は——「見事だ」と、心からの賞賛を口にした。


出自は問わない。資格も問わない。必要なのは、才能と戦う意志だけだ——そう言った。


嘘か本当か、まだ分からない。貴族の言葉など、信用に値しないことは身をもって知っている。騎士団の入隊試験で、散々な扱いを受けた記憶は、今も胸の奥で燻っている。


だが——


「……腐った秩序を壊す、か」


あの目は、嘘をついている目ではなかった。


狂気じみた野心と、それを実現する意志。まだ若い公爵の瞳には、確かにそれが宿っていた。普通の貴族なら、口にすることすら憚られるような言葉を——真っ直ぐに、迷いなく語った。


「……面白え」


レオンハルトは、薄く笑った。


この森で、あとどれくらい生きられるだろう。魔獣を狩り、肉を食らい、毛皮を纏う——それだけの日々が、永遠に続くのか。いつか自分も、狩られる側になる日が来るのだろうか。


孤独な狩人として生き、孤独な獣として死ぬ——それが、自分の運命だと思っていた。


だが、目の前に——別の道が現れた。


「俺の力を、正当に評価する場所を用意する」


ヴィクトールは、そう言った。


正当な評価。


それが何を意味するのか、レオンハルトには分かっていた。血筋でも、資格でもなく——純粋に、何ができるかだけで判断されること。騎士団では得られなかったもの。この社会では、決して手に入らないと諦めていたもの。


「……本当なら」


本当に、そんな世界が実現するなら——


レオンハルトは、最後に一度だけ森を見つめた。


十年間の記憶が、走馬灯のように蘇る。初めて魔獣を狩った日。C級を仕留めた時の興奮。B級を倒した時の、命懸けの死闘。全てがこの森で起きた。全てが、この場所で培われた。


だが——


「……俺は」


低く呟き、背を向けた。


「俺は、獣じゃねえ。人間だ」


人間として生き、人間として戦いたい。誰にも認められず、社会の外で朽ちていくのは——もう、御免だ。


あの公爵の狂気が本物なら——その狂気に賭けてみる価値はある。


レオンハルトは、ヴィクトールたちの元へ歩み寄った。


「——待たせたな」


「いや、必要な時間だ」


ヴィクトールは静かに答えた。その目には、レオンハルトの葛藤を見透かすような——しかし、責めるでもない、穏やかな光が宿っていた。


「行くぞ。——次の仲間を、迎えに」


「ああ」


レオンハルトは頷いた。


斧を肩に担ぎ、森に背を向けて歩き出す。振り返ることは、もうしなかった。


新しい道が、始まろうとしていた。


---


レオンハルトを加えた一行は、森を後にして南へと向かった。


次の目的地は、王国南部に位置する港町リヴァーレ。大陸有数の貿易港として栄えるこの街は、様々な人種が行き交う国際都市でもあった。人間だけでなく、獣人や亜人といった異種族も数多く暮らしている——表向きは。


「獣人、か」


馬車の中で、カイルが呟いた。


「王国じゃ、あまりいい扱いを受けてねえな」


「ああ。法的には人間と同等の権利を持つことになっているが——実態は違う」


ヴィクトールは窓の外を眺めながら答えた。


街道沿いに並ぶ農村が、ゆっくりと後方へ流れていく。収穫を終えた麦畑は黄金色に輝き、農夫たちが鋤を肩に家路を急いでいた。平和な光景——だが、この平穏の裏側には、様々な歪みが隠されている。


「就ける職業は限られ、住める場所も制限されている。表立って差別することは禁じられているが、暗黙の了解として——獣人は二等市民扱いだ」


「穢れた血、と呼ばれているわね」


フィーネが淡々と付け加えた。


彼女は相変わらず、持参した論文に目を通している。だが、その声には——普段の無感情とは異なる、冷たい怒りが滲んでいた。


「学術院でも、獣人の研究者は認められていない。論文を提出することすら許されない。——私が女性だから却下されたように」


「くだらねえ話だ」


レオンハルトが吐き捨てた。


森での狩りを終えてから、彼は少しずつ口を開くようになっていた。まだ打ち解けたとは言い難いが、少なくとも——この一行に対する警戒心は薄れているようだった。馬車という閉鎖空間で、数時間を共に過ごした効果かもしれない。


「強いか弱いか。使えるか使えないか。それだけだろう。血がどうとか、出自がどうとか——そんなもんで人間の価値が決まるかよ」


「同感だ」


ヴィクトールは頷いた。


「だからこそ、次に会う人物は——私の騎士団に必要な存在だ」


懐から羊皮紙を取り出し、広げる。ヴェルナーがまとめた調査報告——その中から、一人の人物の情報を読み上げた。


「ミラ・シルヴァーノ。獣人と人間の混血——いわゆるハーフだ。父親が狼族の獣人、母親が人間。その血を引いて、彼女には——特殊な能力がある」


「特殊な能力?」


カイルが身を乗り出した。傭兵として様々な戦場を渡り歩いてきた彼にとって、特殊能力という言葉は——看過できない情報だった。


「魔獣の気配を感知する力だ。数百メートル先の魔獣の位置を正確に把握し、その強さや数まで感じ取れるという。斥候としては、これ以上ない才能だ」


「……数百メートル?」


フィーネが顔を上げた。その目には、学者特有の——否、研究者特有の好奇心が宿っていた。


「それは驚異的な感知範囲ね。通常の獣人でも、せいぜい五十メートルが限界よ。数百メートルとなると……何らかの特異体質か、あるいは——」


「生まれつきの才能だ」


ヴィクトールは答えた。


「彼女の母親は、かつて王国騎士団の斥候部隊に所属していた。人間でありながら、獣人並みの感知能力を持っていたらしい。その血を、娘が受け継いだ——いや、超えた」


「……そんな能力があるなら、騎士団が放っておかないだろう」


カイルが眉を顰めた。


「なぜ、港町なんかにいる」


「血のせいだ」


ヴィクトールは静かに言った。


窓の外に目を向けながら、淡々と——しかし、怒りを押し殺すような声で続けた。


「彼女は騎士団の入隊試験を受けた。能力測定では最高評価を得た。感知範囲、精度、反応速度——全ての項目で、過去の記録を塗り替えたという」


「それで?」


「最終面接で落とされた」


沈黙が落ちた。


馬車の車輪が石を跳ね、がたりと揺れる。その音だけが、重苦しい空気の中に響いた。


「……理由は」


レオンハルトが低く問うた。その声には、既に答えを知っているような——諦めと怒りが混じっていた。


「『獣人の血が混じった者を、王国の騎士にはできない』——そう言われたそうだ」


誰も、何も言わなかった。


言葉にする必要がなかった。全員が、同じ思いを抱いていたからだ。


カイルは——上官を殴り、除隊された。


フィーネは——女性であることを理由に、論文を却下され続けた。


レオンハルトは——平民であることを理由に、資格を与えられなかった。


そして、ミラは——獣人の血を引くことを理由に、門前払いにされた。


全員が、才能を持っていた。全員が、努力をした。だが——この国の「秩序」は、彼らを認めなかった。血筋が、性別が、出自が、才能よりも優先された。


「……それで、今は何をしているんだ」


カイルが低く問うた。その声には、怒りを押し殺すような響きがあった。


「港町で、運び屋をしている。船と陸を繋ぐ荷物の運搬——表向きは、そういう仕事だ」


「表向きは?」


「裏では——密輸の手引きもしているらしい。彼女の感知能力は、追手を避けるのにも使える。税関の目を逃れ、違法な荷物を運ぶ商人たちにとって、彼女は重宝される存在だ」


「密輸か。まっとうな仕事じゃねえな」


「まっとうな仕事に就けなかったからだ」


ヴィクトールは窓の外に目を向けた。


遠くに、海が見え始めていた。夕陽に照らされた水平線が、オレンジ色に輝いている。美しい光景——だが、その美しさの裏側には、無数の悲劇が隠されている。


「彼女を責める気にはなれない。生きるために、与えられた手段を使っただけだ。——問題は、その才能が正しく使われていないことだ」


「……」


「港町の闇社会で、密輸の手引きをする——それが、大陸随一の感知能力を持つ者の末路だ。馬鹿げている。あまりにも、馬鹿げている」


ヴィクトールの声には、静かな怒りが滲んでいた。


普段は冷静沈着な若き公爵が、感情を露わにする——それは珍しいことだった。カイルもフィーネもレオンハルトも、黙ってその横顔を見つめていた。


「彼女の才能は、戦場で活きるべきだ。魔獣との戦いで、仲間の命を守るために使われるべきだ。——それを、私は実現させる」


---


港町リヴァーレに着いたのは、夕暮れ時だった。


西の空が茜色に染まり、海面がオレンジ色の光を反射している。港には大小様々な船が停泊し、荷揚げの作業員たちが忙しく動き回っていた。


潮の香りが、馬車の中にまで漂ってくる。海鳥の鳴き声、船員たちの怒号、荷車の軋む音——様々な音が混じり合い、独特の喧騒を作り出している。


そして、様々な言語が飛び交っていた。王国語だけでなく、東方の言葉、南方の言葉、聞いたこともない異国の言葉。港町リヴァーレは、大陸中から人々が集まる国際都市だった。


「……賑やかな街だな」


レオンハルトが周囲を見回しながら言った。


窓から顔を出し、物珍しそうに港を眺めている。森で育った彼にとって、これほどの人混みは初めてなのだろう。


「人が多すぎる。——息が詰まりそうだ」


「慣れろ。これからは、こういう場所にも出入りすることになる」


カイルが肩を叩いて笑った。


「それより、目当ての女はどこにいるんだ?」


「港の東側、倉庫街の奥にある酒場——『潮騒の宿』。そこを拠点にしているらしい」


ヴィクトールは馬車を降り、港の雑踏の中へと歩み出した。


夕暮れの港町は、昼間とは違う顔を見せていた。表通りには商人や船員たちが行き交い、活気に満ちている。露店では新鮮な魚介類が売られ、食堂からは美味そうな匂いが漂ってくる。


だが、一本路地を入ると——空気が変わった。


薄暗い路地裏には、怪しげな商売をする者たちがたむろしていた。娼婦が客を呼び込み、賭博師が札を切り、密売人がこそこそと取引をしている。こちらを値踏みするような視線が、四方から突き刺さってくる。


「……物騒な街だな」


フィーネが小声で呟いた。


彼女は警戒するように周囲を見回しながら、ヴィクトールの背中に隠れるように歩いている。学者肌の彼女にとって、こうした裏社会は——未知の領域だった。


「港町はどこもこんなものだ。金が動く場所には、それを狙う者も集まる。——気を引き締めろ」


カイルが警告するように言った。


その目は、周囲を警戒するように動いている。腰の剣にいつでも手が届くよう、姿勢を整えている。傭兵として各地を渡り歩いた経験が、ここでも活きているようだった。


「あの酒場か」


レオンハルトが顎で示した。


路地の奥に、古びた建物が見えた。看板は錆びつき、窓は汚れて中が見えない。扉の前には酔っ払いが一人、壁にもたれて眠りこけていた。


『潮騒の宿』——それが、目的地の名前だった。


「……まともな人間が近づく場所じゃねえな」


カイルが眉を顰めた。


「ああ。だが——彼女は、ここにいる」


ヴィクトールは躊躇なく扉に手をかけた。


「行くぞ」


---


扉を開けた瞬間、薄暗い空気と共に、煙草と安酒の匂いが鼻を突いた。


天井は低く、壁は煤で黒ずんでいる。粗末なテーブルがいくつか並び、そこに座る客たちは——どう見ても、まっとうな職業には就いていないような連中ばかりだった。傷だらけの顔、刺青、欠けた歯、義手、眼帯。港の裏社会に生きる者たちの巣窟——それが、この酒場だった。


客たちの視線が、一斉にヴィクトールたちに向けられた。


十人以上の目が、闘入者を値踏みしている。敵か、獲物か、それとも——無視していい存在か。その判断が下されるまでの、張り詰めた数秒間。


「……場違いな連中が来たな」


カウンターに座る男が、にやりと笑った。


禿げ上がった頭に、顔を横切る古傷。片目は潰れており、残った片目がぎらりと光っている。体格は大きく、腕には錨の刺青が入っていた。元船員——おそらく、海賊崩れだろう。


「旅人さんよ、ここは観光地じゃねえぜ。命が惜しけりゃ、とっとと帰りな」


「忠告には感謝する。だが、用があってきた」


ヴィクトールは臆することなく答えた。


その声は静かだが、妙な迫力があった。この場の空気に呑まれることなく、むしろ——支配しようとするかのような、強い意志。


「ミラ・シルヴァーノを探している。ここにいるか?」


空気が、一瞬で変わった。


客たちの目が鋭くなり、何人かは椅子から立ち上がった。テーブルの下で、武器に手をかける者もいる。カウンターの男も、笑みを消して——ヴィクトールを睨みつけた。


「……ミラの名を出すたあ、いい度胸だな」


低い声だった。先ほどまでの軽薄さは消え、代わりに剥き出しの敵意が滲んでいる。


「お前ら、何者だ。役人か? 騎士団の犬か?」


「どちらでもない」


「じゃあ何だ。ミラに何の用だ」


「それは、本人に伝える」


「本人に、だと?」


男が立ち上がった。


巨体が椅子を蹴倒し、床板が軋む。二メートル近い体躯が、ヴィクトールの前に立ちはだかった。


「いいか、よく聞け。ミラは俺たちの仲間だ。見知らぬ連中に、居場所を教えるわけにはいかねえ」


「仲間、か」


ヴィクトールは静かに言った。


その目は、巨漢を真っ直ぐに見上げている。身長差は三十センチ以上あるが、怯む様子は微塵もなかった。


「彼女を道具として使っているだけではないのか? 獣人の血を引く女を——便利な能力を持つ、使い捨ての駒として」


「——何だと?」


男の顔が歪んだ。怒りが表情に浮かび、太い腕が振り上げられる——


「やめとけ」


カイルが一歩、前に出た。


その動きは自然だったが、同時に——剣の柄に手がかかっていた。いつでも抜けるという、無言の威嚇。


「俺たちに手を出すのは、得策じゃねえぞ。こっちは——」


「——待って」


その時、声が響いた。


女の声だった。若く、しかし芯の通った響き。酒場の喧騒を切り裂いて、はっきりと耳に届く。


客たちの動きが止まり、全員の視線が——酒場の奥へと向けられた。


暗がりの中から、一つの影が現れた。


---


最初に目に入ったのは、銀色に輝く髪だった。


月光を溶かしたような、淡い銀色。腰まで届く長さで、緩やかな癖がついている。薄暗い酒場の中でさえ、その髪は——仄かに光を放っているように見えた。


そして——その髪の間から覗く、尖った耳。


人間のものではない。先端が鋭角に尖り、僅かに動いている。音を拾うように、あるいは——警戒するように。獣の特徴を帯びた、狼の耳だった。

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