『狩人の流儀』
王都を離れ、馬車は東へと向かった。
整備された街道は次第に細くなり、やがて獣道と見紛うばかりの山道へと変わっていく。車輪が石を跳ね、車体が大きく揺れるたびに、フィーネは眉を顰めながら抱えた書物を庇った。
「もう少しで着く。辛抱してくれ」
ヴィクトールが声をかけると、フィーネは無言で頷いた。彼女は馬車に乗ってからほとんど口を開いていない。窓の外を眺めているか、持参した論文に目を通しているか——どちらにせよ、社交的な人間ではないようだった。
一方、カイルは腕を組んだまま仮眠を取っていた。傭兵として各地を転戦してきた経験からか、どんな状況でも睡眠を確保する術を身につけているらしい。揺れる馬車の中でさえ、穏やかな寝息を立てている。
「……あの人、よく眠れるわね」
フィーネがぽつりと呟いた。馬車に乗って以来、初めて発した雑談らしい言葉だった。
「戦場を経験した人間は、休める時に休むことを覚える。明日には死んでいるかもしれないなら、今日眠れる時に眠っておく——そういう思考だ」
「……あなたも、そうなの?」
「私はまだ実戦を経験していない。だが、これからは——休めなくなるだろうな」
ヴィクトールは窓の外に目を向けた。
深い森が広がっていた。陽光は鬱蒼と茂る樹々の葉に遮られ、地面には斑模様の影が落ちている。時折、獣の鳴き声が遠くから聞こえてくる。人里からは遠く離れた、原始の森——ここは、魔獣が棲む領域だった。
「この森に、目当ての人物がいる」
「レオンハルト・グリム……だったわね。生身で魔獣を狩る狩人」
「そうだ。信じられないか?」
「信じられないというより……非合理的だわ」
フィーネは淡々と言った。
「魔獣の強さは、等級によって厳密に分類されている。C級以上の魔獣は、通常の武器では皮膚を貫くことすら困難。B級ともなれば、魔導騎兵でなければ対処は不可能——それが学術院の定説よ」
「定説は、覆されるためにある」
「理屈では分かるわ。でも、物理的な限界というものがある。人間の筋力と、魔獣の防御力。その差は、努力や才能で埋められるものではない——はずよ」
「だから、会いに行く」
ヴィクトールは薄く笑った。
「定説が正しいのか、それとも——この世界には、定説を超える存在がいるのか。この目で確かめるために」
---
馬車が止まったのは、森の入り口だった。
ここから先は、馬車では進めない。獣道すら存在しない原生林が、壁のように立ちはだかっている。
「降りるぞ」
ヴィクトールが声をかけると、カイルが目を開けた。傭兵は一瞬で覚醒し、周囲を警戒するように見回した。
「……森か。魔獣の気配がする」
「分かるのか?」
「長年の勘だ。この森には——かなりの数が棲んでいる。C級が数十、B級も複数。下手をすれば、A級もいるかもしれねえ」
カイルは眉を顰めながら馬車を降りた。腰の剣に手を当て、いつでも抜けるように構えている。
「本当にここに人が住んでるのか? 正気とは思えねえな」
「正気でない者を、私は探している」
ヴィクトールも馬車を降り、森を見上げた。
巨木が空を覆い、昼間だというのに薄暗い。湿った空気には、土と苔の匂いが混じっている。鳥の声は聞こえず、代わりに得体の知れない生物の気配が、四方から押し寄せてくるようだった。
「フィーネ、ここで待っていてもいい。危険だ」
「……いいえ、行くわ」
フィーネは書物を馬車に残し、外套の裾を引き上げた。
「この森の魔獣生態系に興味がある。狩人がどうやって生き延びているのか、観察したい」
「観察か。学者らしい発想だな」
「研究者よ。学者とは違う」
フィーネは淡々と訂正した。その目には、森への恐怖よりも、知的好奇心の光が宿っていた。
---
三人は森の中を進んでいった。
ヴィクトールが先頭、カイルが殿を務め、フィーネはその間に挟まれる形で歩く。足元は落ち葉と苔に覆われ、歩くたびに湿った音が立った。
「……足跡がある」
カイルが低く言った。
「人間のものだ。それも、最近のものだな」
指差す先には、確かに足跡が残されていた。獣のものではない、明らかに人間の——それも、かなり大きな足のものだ。
「この先か」
ヴィクトールは頷き、足跡を辿っていった。
森は深くなるにつれ、暗さを増していった。時折、茂みの向こうで何かが動く気配がする。魔獣だろうか。だが、近づいては来ない。まるで——何かを恐れているかのように。
「……妙だな」
カイルが呟いた。
「魔獣がいるのは分かる。だが、襲ってこねえ。普通なら、人間三人なんて格好の餌だぞ」
「怯えているのよ」
フィーネが静かに言った。
「魔獣は本能で動く生き物。より強い存在を感知すれば、それを避けようとする。この森の魔獣たちは——何かを恐れている」
「何かを?」
「おそらく……私たちが探している人物を」
その時——
「——止まれ」
低い声が、森の中から響いた。
三人は足を止めた。声の主は見えない。木々の陰か、あるいは枝の上か——どこからともなく、声だけが聞こえてくる。
「何者だ。この森に、何の用だ」
若い男の声だった。低く、しかし野性味を帯びた響き。警戒心と、僅かな敵意が滲んでいる。
「私はヴィクトール・フォン・シュヴァルツェン。レオンハルト・グリムを探している」
「……シュヴァルツェン?」
声に、驚きの色が混じった。
「公爵家の名だな。なぜ貴族が、こんな森に」
「君に会いに来た。——降りてきてくれないか。話がしたい」
長い沈黙が落ちた。
木々の葉がざわめき、風が吹き抜ける。三人は動かず、声の主の反応を待った。
やがて——
頭上の枝が揺れ、一つの影が落ちてきた。
---
それは、獣のような男だった。
最初にヴィクトールが感じたのは、圧倒的な存在感だった。身長は優に百九十を超え、鍛え抜かれた肉体は粗末な毛皮の衣服の上からでも分かるほど隆起している。日に焼けた肌、短く刈り込んだ黒髪、そして——琥珀色の瞳。
野生動物のような目だった。獲物を見定める捕食者の目。しかし同時に、知性の光も宿している。ただの獣ではない。考え、判断し、行動する——人間の目だ。
背中には、巨大な斧が背負われていた。刃渡りは優に一メートルを超え、柄の長さも同程度。常人ならば持ち上げることすら困難な重量だろう。だが、この男は——それを片手で軽々と扱えるに違いないと、ヴィクトールは直感した。
「……本当に公爵か」
男——レオンハルトは、ヴィクトールを値踏みするように見つめた。
「護衛も連れずに、こんな森に入ってくるとはな。肝が据わっているのか、馬鹿なのか」
「おそらく両方だ」
ヴィクトールは臆することなく答えた。
「レオンハルト・グリム。生身で魔獣を狩る狩人。——噂は本当か?」
「噂?」
「B級魔獣を、単身で仕留めたと聞いている」
レオンハルトの口元が、僅かに歪んだ。笑みとも、嘲りともつかない表情だった。
「噂は大袈裟だ。B級は——三体しか狩っていない」
「三体だと?」
カイルが声を上げた。
「馬鹿な。B級魔獣を生身で? 魔導騎兵なしで? そんなことは——」
「不可能か?」
レオンハルトはカイルを見た。その視線に、カイルは一瞬たじろいだ。圧倒的な威圧感。戦場を生き抜いた傭兵でさえ、本能的に後退りたくなるような——捕食者の眼差し。
「不可能を可能にするのが、狩りだ。魔獣の習性を知り、地形を利用し、弱点を突く。巨大な力に、真正面からぶつかる馬鹿はいない。——騎士団は別だがな」
最後の言葉には、明らかな侮蔑が込められていた。
「レオンハルト」
ヴィクトールは一歩、前に出た。
「君の技術を見せてほしい。今から——魔獣を狩ってもらえないか」
「……何?」
「君の力が本物かどうか、この目で確かめたい。報酬は払う。金か、武器か、望むものを」
レオンハルトは暫く黙ってヴィクトールを見つめていた。
その琥珀色の瞳は、何かを測っているようだった。この若い公爵が、何を考え、何を求めているのか。信用に値する人間なのか、それとも——貴族特有の気まぐれで、珍しい見世物を求めているだけなのか。
「……いいだろう」
やがて、レオンハルトは頷いた。
「この近くに、B級の魔獣が一体いる。『鉄牙猪(アイゼンエーバー)』——全長六メートル、全身が鋼のように硬い毛皮で覆われた猪だ。三日前から縄張りに入り込んで、俺の獲物を荒らしている」
「それを狩るのか」
「ああ。ついてこい。——ただし、邪魔はするな。死にたくなければ、俺の指示に従え」
レオンハルトは背を向け、森の奥へと歩き始めた。
三人は顔を見合わせ、その後に続いた。
---
森の奥深く。
陽光はほとんど届かず、辺りは薄暗い闇に包まれていた。地面には獣の足跡が残され、木々の幹には鋭い爪痕が刻まれている。魔獣の縄張りに入った証拠だった。
「ここで待て」
レオンハルトは立ち止まり、低く指示した。
「俺が仕掛ける。お前たちは、この場から動くな。何があっても——手を出すな」
「分かった」
ヴィクトールは頷いた。
レオンハルトは斧を背中から降ろし、片手で軽々と構えた。その重量は、少なく見積もっても五十キロ以上はあるだろう。それを羽のように扱う姿は、人間離れしているとしか言いようがなかった。
「……始めるぞ」
低く呟き、レオンハルトは茂みの向こうへと消えていった。
---
三人は息を殺して待った。
森は静寂に包まれていた。風が木々の葉を揺らし、どこかで水の流れる音がする。それ以外は——何も聞こえない。
一分が過ぎ、二分が過ぎた。
「……何も起きねえな」
カイルが小声で呟いた時——
轟音が、森を揺るがした。
「——グォオオオオオッ!」
地面が震えるような咆哮。木々が倒れ、鳥たちが一斉に飛び立つ。そして——巨大な影が、茂みの向こうから突進してきた。
鉄牙猪。
報告の通り、全長は六メートルを超えていた。全身を覆う剛毛は、まさしく鋼のような光沢を放っている。目は血走り、牙は鋭く尖り、その姿はまさに——突撃する要塞だった。
「避けろ!」
カイルが叫び、フィーネの腕を掴んで横に飛んだ。ヴィクトールも反対側に跳躍する。
巨体が突進し、三人がいた場所を蹂躙していく。木々が薙ぎ倒され、地面が抉れ、土煙が舞い上がった。
「くそっ、何が——」
カイルが剣を抜こうとした時、別の方向から声が響いた。
「動くな!」
レオンハルトだった。
いつの間に移動したのか、彼は倒れた大木の上に立っていた。その手には斧が構えられ、琥珀色の瞳は——鉄牙猪を見据えていた。
「——こっちだ、鉄屑野郎」
挑発するように、レオンハルトは地面を斧で叩いた。
鉄牙猪が反応した。巨体が向きを変え、新たな獲物——レオンハルトに向かって突進を開始する。
「来い」
レオンハルトは動かなかった。
六メートルの巨体が、凄まじい速度で迫ってくる。衝突まで、残り二十メートル、十五メートル、十メートル——
「……動け!」
カイルが叫んだ。
だが、レオンハルトは動かない。
五メートル、四メートル、三メートル——
そして、衝突の瞬間——
レオンハルトは、跳んだ。
「——っ!」
常人には不可能な跳躍だった。まるで重力が存在しないかのように、彼の体は宙に舞い上がった。鉄牙猪の突進は空を切り、巨体は勢いを殺せずに大木に激突する。
衝撃で大木が折れ、地響きが森を揺るがす。
そして——
「——終わりだ」
レオンハルトは、鉄牙猪の背中の上にいた。
いつ着地したのか。一瞬の出来事で、誰も認識できなかった。だが、確かに——彼は巨獣の背に立ち、斧を振り上げていた。
「喰らえ」
斧が振り下ろされた。
鋼の毛皮を纏った巨獣の背中——その一点だけ、毛皮が薄くなっている箇所があった。首と胴体の境目、脊椎が剥き出しになる僅かな隙間。
斧は——その急所に、正確に叩き込まれた。
「——グギャアアアアッ!」
断末魔の咆哮が森に響いた。
鉄牙猪の巨体が痙攣し、四肢が崩れ落ちる。斧は脊椎を断ち、脳への神経伝達を遮断した。即死ではないが——もはや動くことは叶わない。
レオンハルトは背中から飛び降り、静かに斧を引き抜いた。
「……これが、狩りだ」
鮮血に濡れた刃を見つめながら、低く呟く。
「力で勝てない相手には、技術で勝つ。習性を知り、弱点を突く。——それが、狩人の流儀だ」
---
三人は、言葉を失っていた。
カイルは目を見開いたまま、倒れた鉄牙猪を見つめている。フィーネは蒼白な顔で、何かをぶつぶつと呟いていた——おそらく、今見た光景を分析しようとしているのだろう。
そして、ヴィクトールは——
「……見事だ」
静かに、しかし確信を込めて言った。
「噂は本当だった。いや——噂以上だ
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