『没落令嬢の矜持』
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カイルを伴い、ヴィクトールは次の目的地へと向かった。
鉱山街ヴェルクハイムを後にした馬車は、王都へと続く街道を南下していく。しかし、王都には入らない。目指すのは、王都の外縁部に広がる貧民街——通称『灰の街』だった。
「次はどんな奴だ?」
向かいの席に座るカイルが、腕を組んだまま問うた。馬車に乗り込んでからずっと、彼は警戒を解いていない。ヴィクトールの申し出を受けたとはいえ、完全に信用したわけではないのだろう。当然のことだ。信頼は、時間をかけて築くものだ。
「フィーネ・エーレンベルク」
ヴィクトールは懐から羊皮紙を取り出し、広げた。
「没落貴族の娘だ。かつてエーレンベルク男爵家は、魔導工学の分野で名を馳せていた。王立学術院に多くの技術者を輩出し、魔導騎兵の発展に大きく貢献した一族だ」
「エーレンベルク……聞いたことがあるな。確か、五年前に——」
「ああ。当主が研究資金の横領疑惑で告発され、爵位を剥奪された。領地は没収、一族は離散。当主本人は獄中で病死したと聞いている」
カイルは眉を顰めた。
「横領か。金に汚い貴族は珍しくねえが——」
「濡れ衣だ」
ヴィクトールは断言した。
「調べさせた。横領の証拠とされた帳簿は、明らかに偽造されていた。エーレンベルク家は、政敵に嵌められたんだ」
「政敵?」
「ホフマン家。王立学術院の学長を代々輩出している名門だ。エーレンベルク家の技術力は、彼らの地位を脅かしていた。だから——消した」
馬車の中に、重い沈黙が落ちた。
カイルは窓の外を睨んでいた。その横顔には、怒りとも諦めともつかない複雑な感情が浮かんでいる。彼もまた、権力者の理不尽に踏みにじられた一人だ。この話が他人事とは思えないのだろう。
「……で、その娘は今どうしてる」
「独学で魔導工学を学び続けている。王立学術院への論文提出を十二回試みたが、全て却下された。理由は様々だ——『前例がない』『理論が飛躍している』『女性研究者は認められない』……」
「くだらねえ」
カイルが吐き捨てた。
「ああ、くだらない。だが、彼女の論文の中には——魔導炉の効率を現行の七十パーセントから九十パーセント以上に引き上げる可能性を示唆するものがある」
「なに?」
カイルの目が見開かれた。
魔導騎兵の心臓部である魔導炉——その効率が二十パーセント以上向上するということは、同じ魔力量でより長時間の稼働が可能になることを意味する。あるいは、より強力な武装を搭載できる。戦場において、それは決定的な優位をもたらす。
「……そんな技術が、埋もれてるのか」
「埋もれている。いや、意図的に埋められている。既存の技術で利益を得ている者たちにとって、革新は脅威だからな」
ヴィクトールは羊皮紙を畳み、懐に収めた。
「彼女の才能を、腐らせるわけにはいかない」
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『灰の街』は、王都の華やかさとは対照的な場所だった。
石畳は罅割れ、建物は傾き、空気は澱んでいる。道を歩く人々の目には光がなく、痩せこけた子供たちが物乞いの手を伸ばしている。王国の繁栄を象徴する王都の、その影の部分——ここは、そういう場所だった。
「こんな所に、元貴族の娘が……」
カイルは眉を顰めながら、周囲を見回した。
「没落すれば、行き場はここしかない。親戚を頼ることもできず、知人からも見放され——残されたのは、この灰色の世界だけだ」
ヴィクトールは淡々と言いながら、狭い路地を進んでいく。
目的地は、貧民街の片隅にある古い建物だった。かつては商家だったのだろう。今は廃墟同然で、窓は板で塞がれ、壁には蔦が絡みついている。
「ここか?」
「ああ。彼女は、この建物の地下に住んでいる」
「地下?」
「研究には広い場所と、人目につかない環境が必要だからな」
ヴィクトールは扉に手をかけた。鍵はかかっていなかった——というより、鍵をかける意味がないほど、この建物には価値がないのだろう。
軋む音を立てて扉が開く。
中は埃っぽく、黴の匂いがした。床板は所々抜け落ち、天井からは蜘蛛の巣が垂れ下がっている。まともに住める環境ではない。
「……本当にここに人が住んでるのか?」
カイルが訝しげに呟いた時——
地下への階段から、微かな光が漏れているのが見えた。
そして、声が聞こえた。
「——だから、この数式では不完全なのよ。魔力の流動係数を考慮していないわ。もう一度、最初から計算し直さないと……」
若い女の声だった。独り言のようだが、誰かと会話しているようでもある。
ヴィクトールは静かに階段を降りていった。カイルもその後に続く。
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地下室は、予想外の光景だった。
狭い空間には、所狭しと本が積み上げられていた。床にも、壁際にも、天井近くまで——ありとあらゆる場所に、書物と羊皮紙が山を成している。蝋燭の灯りが揺らめく中、その山の合間を縫うように、奇妙な器具や図面が置かれていた。
そして、部屋の中央。
粗末な机に向かって、一人の女性が座っていた。
銀灰色の髪は無造作に束ねられ、白い肌は蝋燭の光を受けて青白く見える。痩せた体は質素な——というより、擦り切れた服に包まれ、指先は墨で黒く汚れていた。
年齢は二十歳くらいだろうか。かつては美しかったであろう面立ちは、今は疲労と栄養不足で憔悴している。だが、その目だけは——異様な光を宿していた。
書物と数式に向けられた、狂気じみた集中力。
世界には自分と、目の前の研究しか存在しないかのような、没入。
「……見事だ」
ヴィクトールは思わず呟いていた。
その声に、女性がようやく顔を上げた。
一瞬、虚ろな目がヴィクトールを見た。状況を理解するのに、数秒かかったようだった。研究に没頭するあまり、外界の認識が遅れている——そういう人間を、ヴィクトールは知っていた。弟のルドルフも、同じ目をする時がある。
「……誰?」
感情の薄い声だった。警戒でも、恐怖でもない。ただ純粋な疑問として、闘入者の正体を問うている。
「突然の訪問を詫びる。私はヴィクトール・フォン・シュヴァルツェン。君がフィーネ・エーレンベルクか」
「……シュヴァルツェン」
女性——フィーネは、その名前を反芻するように呟いた。
「五大公爵家の一つ。現当主は若く、異端的な思想の持ち主だと聞いている。弟は魔獣研究に狂っているとか。……なぜ、そんな人がここに?」
「君を迎えに来た」
「迎え?」
フィーネは首を傾げた。その動作には、貴族の令嬢としての優雅さの名残があった。だが、それも今は色褪せている。
「私を? 何のために?」
「君の才能が必要だからだ」
ヴィクトールは一歩、前に進んだ。
「君が王立学術院に提出した論文を読んだ。全十二本。どれも却下されたそうだが——私には、その価値が分かる」
フィーネの目が、僅かに見開かれた。
「……読んだ? あの論文を?」
「ああ。特に第七稿——『魔導炉における魔力循環効率の改善に関する考察』。あれは素晴らしかった。既存の理論では説明できない現象を、独自の数式で解き明かしている。学術院の老人どもには理解できなかっただろうが、私の弟なら——」
「待って」
フィーネが立ち上がった。
椅子が倒れる音がしたが、彼女は気にもしなかった。その目には、先ほどまでの虚ろさはなかった。代わりに、強い光が宿っている——知識欲。探求心。そして、認められることへの飢え。
「あなた、本当に読んだの? あの論文を? 理解できたの?」
「概要は理解した。詳細な数式は、正直なところ私の専門外だ。だが——」
ヴィクトールは真っ直ぐにフィーネを見据えた。
「それを理解できる人間が、私の側にいる。彼と君が組めば、既存の魔導技術を根底から覆すことができる」
「……誰?」
「私の弟だ。ルドルフ・フォン・シュヴァルツェン。彼は——」
言葉を選ぶように、一瞬の間を置いた。
「——魔獣に魅せられた男だ。魔獣の生体構造を研究し、それを魔導騎兵に応用しようとしている。狂っていると言われるかもしれない。だが、彼の才能は本物だ。君と同じように」
フィーネは黙ったまま、ヴィクトールを見つめていた。
その目には、様々な感情が渦巻いているようだった。驚き、戸惑い、そして——微かな期待。
五年間、彼女は孤独に戦い続けてきた。家を失い、名誉を失い、それでも研究を捨てられなかった。誰にも認められず、どこにも居場所がなく、それでも筆を置くことができなかった。
それが——今。
目の前に、理解者が現れた。
「……何が目的?」
フィーネは低く問うた。その声には、警戒心が滲んでいた。
「私設騎士団を作る」
ヴィクトールは淡々と答えた。
「王国騎士団とは違う、新しい組織だ。出自も性別も問わない。必要なのは才能だけ。私は戦場を指揮し、弟は兵器を開発する。君には——その開発を支えてほしい」
「開発を支える?」
「ああ。弟の発想は天才的だが、時として飛躍しすぎる。理論の穴を埋め、実現可能性を検証する——そういう役割が必要だ。君の論文を読んで確信した。君には、それができる」
フィーネは黙り込んだ。
彼女の視線が、部屋の中を彷徨った。積み上げられた本の山、書きかけの論文、使い古された研究器具——五年間の孤独な戦いの痕跡が、そこにはあった。
「……私の論文は、十二回却下されたわ」
低い声だった。
「『前例がない』『理論が飛躍している』『女性研究者は認められない』——そう言われ続けた。最初は悔しかった。次第に、怒りに変わった。そして今は……」
言葉が途切れた。
「……もう、何も感じなくなった。期待することを、やめたの」
「それでも、君は研究を続けている」
ヴィクトールは静かに言った。
「この環境で、誰にも認められずに、それでも——諦めなかった。なぜだ?」
フィーネは顔を上げた。その目には、涙はなかった。代わりに、静かな炎が燃えていた。
「……知りたいから」
「知りたい?」
「世界の仕組みを。魔力の本質を。なぜ魔導炉は動くのか、なぜ魔獣は存在するのか——答えのない問いを、追い続けずにはいられないの。馬鹿げていると思うでしょう? 何の役にも立たない、自己満足だと」
「思わない」
ヴィクトールは首を振った。
「それは——私の弟と同じだ。彼も、知りたいという衝動に突き動かされている。世間から狂人と呼ばれても、研究をやめられない。君たちは、同じ種類の人間だ」
フィーネの目が、僅かに揺れた。
「……同じ?」
「ああ。だからこそ、君の居場所は——ここではない」
ヴィクトールは手を差し出した。
「フィーネ・エーレンベルク。私と共に来るか? 君の才能を、正当に評価する。君の研究を、実現させる。そして——君の問いに、答えを見つける手助けをする」
長い沈黙が落ちた。
フィーネは差し出された手を見つめていた。その目には、葛藤が浮かんでいた。五年間、裏切られ続けた記憶が、彼女を躊躇わせている。
だが——
「……一つ、条件があるわ」
フィーネは顔を上げた。
「条件?」
「あなたの弟——ルドルフという人に、会わせて。研究の話をしたい。それで、彼が本物かどうか判断する。もし彼が……ただの貴族の道楽で研究ごっこをしているだけなら、私は行かない」
ヴィクトールは笑った。
「望むところだ。弟は——君の期待を裏切らないと約束しよう」
そして、フィーネは——
静かに、差し出された手を取った。
「……行くわ。でも、期待はしない。期待は、裏切られるものだから」
「構わない。結果で証明する」
二人の手が、固く結ばれた。
黒鋼騎士団に、二人目の剣が加わった。
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地下室を出ると、外はすでに夕暮れだった。
茜色に染まる空の下、三人は馬車へと向かった。フィーネは最低限の荷物——主に書物と研究資料——を抱えている。他には何も持っていなかった。持つ物が、なかったのだろう。
「次は誰だ?」
カイルが問うた。
「レオンハルト・グリム。魔獣狩りの狩人だ。王都から三日の距離にある森に住んでいる」
「狩人? 騎兵士じゃないのか?」
「資格を持っていない。だが——生身でB級魔獣を狩ると言われている」
カイルの目が見開かれた。
「……冗談だろ?」
「調査報告を信じるなら、冗談ではない。会えば分かる」
ヴィクトールは馬車に乗り込みながら、夕焼けの空を見上げた。
「まだ始まったばかりだ。だが——確実に、歯車は動き始めている」
その言葉を、風が攫っていった。
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