「噂の代償」



地下室を後にしたヴィクトールは、屋敷の廊下を歩いていた。


西日が窓から差し込み、長い影を作っている。豪奢な調度品が並ぶ廊下は、公爵家の富を無言で誇示していた。


「閣下」


背後から声がかかった。


振り向くと、老執事のヴェルナーが恭しく頭を下げていた。白髪の老人は、先代公爵の時代から仕えている古参の忠臣である。


「何だ」


「本日の執務についてご報告が。また、一件、お耳に入れておきたいことが」


「執務室で聞く。来い」


ヴィクトールは歩き出した。ヴェルナーが、その後に続く。


やがて執務室に辿り着き、ヴィクトールは窓辺の椅子に腰を下ろした。広大な公爵領が、窓の外に広がっている。


「報告しろ」


「は。まず、領内の状況でございます」


ヴェルナーは、手にした書類に目を落とした。


「税収は前年比で一割二分の増加。新たに開墾した農地からの収穫も順調です。北部鉱山からの産出量も、予想を上回っております」


「問題点は」


「三つございます」


老執事は、僅かに声を低くした。


「一つ、北部森林地帯での魔獣出没が増加しております。先月だけで、三つの村落が襲撃を受けました」


「被害は」


「死者十二名、負傷者三十名以上。家屋の損壊も多数」


「騎士団の対応は」


「領内駐留の騎士団が討伐に向かいましたが、魔獣の数が予想以上に多く、苦戦しております」


ヴィクトールは、眉をひそめた。


シュヴァルツェン公爵領には、王国騎士団から派遣された騎士団が駐留している。魔導騎兵(レギオン)五機を擁する、決して小さくない戦力だ。


それが苦戦している。


「魔獣の種類は」


「主にC級からB級。しかし、中にはA級と思われる個体の目撃情報も」


「A級か」


A級魔獣。討伐には魔導騎兵(レギオン)の小隊——三機から五機——が必要とされる強敵だ。単独で村一つを壊滅させる力を持つ。


「対応を検討する。続けろ」


「は。二つ目は、隣接するグラーフ伯爵領との境界線紛争でございます」


「まだ続いているのか」


「はい。伯爵側が、境界線の変更を主張しております。先週も、小規模な衝突がございました」


ヴィクトールは、小さく舌打ちした。


グラーフ伯爵。先々月の晩餐会で「侮辱された」と激怒した、あの老人だ。過去の武勇伝を延々と語り、「その後は何か成し遂げましたか」と聞かれて黙り込んだ。


以来、伯爵は事あるごとにシュヴァルツェン家に嫌がらせを仕掛けてきている。境界線紛争も、その一環だろう。


「面倒な老人だ」


「仰る通りでございます。しかし、伯爵は王宮にも顔が利く方ですので——」


「分かっている。適当にあしらっておけ。本格的な対応は後回しだ」


「かしこまりました」


ヴェルナーは、三つ目の報告に移った。


「最後に——王都の社交界にて、閣下とルドルフ様に関する噂が広まっております」


「噂か」


ヴィクトールは、さして興味もなさそうに応じた。


「具体的には」


---


ヴェルナーは、一瞬躊躇った。


しかし、主の目が「隠すな」と告げている。老執事は覚悟を決めて口を開いた。


「まず、閣下ご自身についてでございます」


「ああ」


「先月のヴァイスベルク侯爵家の夜会でのことが、未だに尾を引いております」


ヴィクトールは、僅かに眉を動かした。


「侯爵令嬢との件か」


「はい。令嬢との会話を五分で切り上げられ、『これ以上話しても時間の無駄だ』と仰ったとか」


「事実だろう。天気と他家の噂話しか話題がない女と、何を語れというんだ」


「……」


老執事は、小さく溜息をついた。


「令嬢は泣き崩れ、侯爵は激怒されました。『礼儀も知らぬ若造』『公爵の器ではない』と、あちこちで吹聴されております」


「侯爵がか」


「はい。侯爵は王宮にも顔が利く方です。悪評が広まるのは早うございました」


ヴィクトールは、窓の外に視線を向けた。


「それで?」


「え?」


「他には」


「まだお聞きになりますか」


「全て聞く。敵を知らずに対策は立てられない」


---


ヴェルナーは、重い口を開いた。


「先々月のグラーフ伯爵との晩餐会も、問題になっております」


「ああ、あの時か」


ヴィクトールの口元に、僅かに笑みが浮かんだ。


「伯爵が若い頃の武勇伝を延々と語っていただろう。魔獣を三匹倒しただの、剣術大会で準優勝しただの」


「左様でございます」


「退屈すぎて死ぬかと思った。だから聞いたんだ。『それで、その後は何か成し遂げられましたか』と」


ヴェルナーの顔が、僅かに引きつった。


「伯爵は大変なご立腹でした。『若造に侮辱された』と」


「侮辱? 質問しただけだ」


「閣下……」


「事実を指摘されて怒るのは、図星を突かれた証拠だろう」


ヴィクトールは、肩をすくめた。


「過去の栄光にすがるしかない老人に、なぜ気を遣わねばならない。今の実力で勝負できない者に、価値はない」


「仰ることは分かります。しかし——」


「分かっている。政治的には愚策だった」


若き公爵は、あっさりと認めた。


「だが、我慢ならなかったんだ。あの手の人間が」


「……」


「自分では何も成し遂げられないくせに、過去の遺産だけで威張り散らす。そういう連中が、この国には多すぎる」


---


ヴェルナーは、次の話題に移った。


「次に、ルドルフ様についてでございます」


「ルドルフか」


ヴィクトールの表情が、僅かに険しくなった。弟の話題は、いつも厄介だ。


「先月の王都夜会でのことでございます」


「ああ……あれか」


「はい。ルドルフ様は夜会の間中、会場の隅で一人、何やら手帳に書き込んでおられました」


それ自体は、まだ良かった。ルドルフが社交的でないことは、誰もが知っている。問題は、その後だった。


「ブラウン男爵が声をかけられたそうですな」


「何と言った」


「男爵が『何を書いているのかね』とお尋ねになったところ——」


ヴェルナーは、苦々しげに続けた。


「ルドルフ様は『あなたの骨格構造を記録しています。人間の中では珍しい歪みがある。死後でいいので、解剖させてもらえませんか』と」


ヴィクトールは、額に手を当てた。


「……それで?」


「男爵は卒倒されました。夫人は悲鳴を上げ、夜会は大混乱に」


「だろうな」


「『公爵家の次男は人体解剖を趣味にしている』『狂人が野放しにされている』という噂が、瞬く間に広まりました」


「弁解の余地がないな」


「はい」


---


ヴィクトールは、深く息を吐いた。


ルドルフに悪意がないことは分かっている。弟は純粋に、人体の構造に興味があっただけだ。男爵の背骨の湾曲が珍しかったのだろう。それを記録し、できれば詳しく調べたい——ただ、それだけ。


しかし、世間はそう受け取らない。


「他にもあるんだろう」


「……はい」


ヴェルナーは、重い口を開いた。


「三ヶ月前の王立学術院講演会でのことでございます」


「ああ、あれか。僕も報告は受けている」


「では、詳細はご存知で——」


「概要だけだ。詳しく話せ」


---


王立学術院。王国の知識の殿堂と呼ばれる機関である。


その大講堂で、定例の講演会が開かれていた。演題は『魔獣の脅威と人類の対処——歴史的考察』。講演者は、学術院の重鎮ホフマン教授。


会場には、貴族、学者、高級官僚など、王国の知識人たちが詰めかけていた。


ルドルフ・フォン・シュヴァルツェンも、その中にいた。


彼は最前列に座り、講演を聞いていた。正確には、講演者が示す魔獣の図版を、食い入るように見つめていた。


壇上に掲げられた魔獣の解剖図。筋肉の配置、骨格の構造、内臓の位置——ルドルフにとっては、この上なく興味深い資料だった。


「——このように、魔獣は人類文明にとって最大の脅威であります」


ホフマン教授の声が、講堂に響く。


「古来より、我々の祖先は魔獣と戦い続けてきました。多くの犠牲を払い、多くの英雄が命を落とし、そうして人類は生存圏を守ってきたのです」


教授は、壇上を歩きながら続けた。白髪の老学者は、権威に満ちた態度で聴衆を見渡した。


「魔獣とは何か。それは『敵』です。人類の敵、文明の敵、神に背きし穢れた存在。我々は、この敵を排除し続けなければならない。それが、人類に課せられた使命なのです」


会場から、拍手が起こった。


教授の言葉は、王国の「常識」そのものだった。魔獣は敵。討伐すべき害悪。疑う余地のない真実——誰もがそう信じていた。


しかし——


「質問があります」


凛とした声が、会場に響いた。


ルドルフ・フォン・シュヴァルツェンが、立ち上がっていた。


---


会場がざわついた。


シュヴァルツェン公爵家の次男。「変わり者」として知られる青年。その彼が、王国学術界の権威に質問を投げかけようとしている。


「何かね」


ホフマン教授は、やや見下すような目で言った。学術の場では身分など関係ない。しかしこの青年が公爵家の者だということは知っていた。それでも、教授の態度は尊大だった。


「教授。先ほどの講演で、魔獣を『敵』『排除すべき害悪』と表現されました」


「その通りだ。それが何か?」


「しかし——」


ルドルフの紫の瞳が、異様な輝きを帯びた。


「教授がお示しになった解剖図を見る限り、魔獣の生体構造は極めて精緻です」


「……何が言いたいのかね」


「筋繊維の配列、魔力回路の密度、感覚器官の精度——どれをとっても、人類の技術を遥かに凌駕しています」


ルドルフの声には、純粋な感嘆が込められていた。


「特に、この魔力炉(エーテル・コア)の構造。我々の魔導炉(マギア・コア)より、はるかに効率的な魔力生成を行っている。なぜ、これを研究し、活用しないのですか?」


会場が、静まり返った。


「活用……だと?」


教授の声が、低くなった。


「はい。魔獣を殺して終わりにするのではなく、その能力を詳しく研究し、人類の技術に取り込む。そうすれば、魔導騎兵(レギオン)の性能も飛躍的に向上するはずです」


「馬鹿な!」


ホフマン教授の顔が、怒りで紅潮した。


「魔獣は敵だ! 忌むべき存在だ! その力を借りるなど——人間としての誇りを捨てるに等しい!」


「誇りで戦争に勝てるのですか?」


「っ……!」


「魔導騎兵(レギオン)の動力源である魔導炉(マギア・コア)は、元々魔獣の器官を模倣したものです。我々は既に、魔獣の技術を借りている。それをさらに推し進めて、何が悪いのですか?」


「黙りたまえ!」


教授の怒声が、講堂に響いた。


「魔導炉(マギア・コア)は、あくまで魔獣の器官を『参考』にした人工物だ! 魔獣そのものの力を使うこととは、全く違う!」


「本質的には同じでは?」


「同じではない!」


ホフマン教授は、壇上から身を乗り出した。顔は怒りで真っ赤に染まり、白髪が乱れていた。


「君は……君は、まさか魔獣を『美しい』などと思っているのではないか?」


その問いに——


ルドルフは、微笑んだ。


あまりにも自然に、あまりにも純粋に。


「ええ。美しいですよ」


会場が、凍りついた。


「魔獣の生体構造は、芸術品のように精緻です。進化の果てに到達した、完成された形。人間の身体など、比べ物にならないほど美しい」


「……っ!」


「なぜ皆さんは、それを認めようとしないのですか? 美しいものを美しいと言って、何が悪いのです?」


---


沈黙が、講堂を支配した。


誰も、何も言えなかった。


「狂人だ……」


やがて、誰かが呟いた。


「あの男は狂っている」


その言葉が、波紋のように広がっていった。


「魔獣を美しいと言う狂人」「公爵家の恥」「シュヴァルツェン家は没落する」——


ルドルフは、周囲の反応を不思議そうに見ていた。


自分は、事実を述べただけだ。魔獣の生体構造が精緻であることは、客観的な事実。それを美しいと感じるのは、自然な感情ではないか。


なぜ、皆はあんなに怒っているのだろう。


彼には、理解できなかった。


---


「——というのが、経緯でございます」


ヴェルナーは、報告を終えた。


ヴィクトールは、しばらく無言だった。


窓の外を見つめている。その表情からは、何を考えているのか読み取れない。


「閣下……」


「ルドルフは、間違っているか?」


「は?」


「魔獣の能力を研究し、活用する。間違った発想か?」


ヴェルナーは、答えに窮した。


「それは……倫理的に問題が——」


「倫理か」


ヴィクトールは、鼻で笑った。


「倫理とは、多数派が少数派を抑えつけるための道具だ。『皆がそう思っているから正しい』——それは、思考の放棄に過ぎない」


「しかし、社会には秩序が——」


「秩序? 腐った秩序に、何の価値がある」


振り向き、老執事を見据えた。


「ルドルフは天才だ。あいつの見ている世界は、凡人には理解できない。だから狂人扱いされる」


「……」


「だが、天才とはそういうものだ。常識の外にいるからこそ、常識を超えたものを生み出せる」


ヴィクトールの目が、鋭く光った。


「僕は、弟を守る。あいつの才能を、誰にも潰させない」


「閣下……」


「そして——結果を出す。誰も文句を言えないほどの、圧倒的な結果を」


その目には、揺るぎない決意が宿っていた。


---


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