中編
朝から小雨が止まない日だった。
薄暗い路地裏に、彼は壊れた人形のように座りこんでいた。
幼い彼の目には何も映っておらず空っぽだった。壊れた人形のようで、だからネネファ・イニは彼の前にしゃがみこんで聞いたのだ。
「あなた、うちに来ますか?」
彼は五歳で、ネネファ・イニは八歳。
二人はそこから九年を共に過ごした。
「グリュ、全部教えてあげます。私の魔法も、技術も。あなたがいつか一人でも生きていけるように」
「僕がいなくなったらお師様は栄養失調で早晩倒れますよ」
寄り添って家族のように。或いはもっと強くて脆い、切実な繋がりを以て。
※
「お母さま、頼まれものができあがりました」
「まあ、ありがとう」
レースの袋に入った匂い袋を五つ、メルセヴィーナは母に渡す。
かつての記憶を取り戻してから一年、魔女は貴族令嬢としての教育を受けながら、前世の知識を使ってささやかな困りごとにも応対している。安眠をもたらす匂い袋の作成もそうだ。
魔法を使うことも多いが、分かるように使う時は小さな術ばかりを使う。間違っても魔女だと知られてはならない。魔法使いと魔女は似て非なるものなのだ。魔法脈を大地と繋がるものに広く展開できるのは魔女だけだ。だからこそ強力な魔女を擁する土地は豊んでいく。ネネファがかつて国を一つ作り上げたようにだ。
けれど今それをしては彼女の存在が見つかり、以前のようなことになるかもしれない。だからネネファは慎魔法脈を広げる土地は城都の屋敷か、両親の領地内の一部だけに限り、慎重に迷彩をかけていた。
魔法を使わないという選択肢はない。
かつて彼女が献身していたのは「誰かに愛されたい」という欲求の裏返しだったが、周囲の人々に大事にされている今でもやるべきことは変わらない。
愛されているということは、献身をやめる理由にはならないのだ。
「あなたは手のかからない娘ですけど、もっと甘えてもいいのですからね。私や、お父様くらいには」
「充分過ぎるくらい甘えています。毎日とても幸せです」
心穏やかな日々を過ごせている。目立たないように、とごくごく気をつけているが、不満はまったくない。
以前の魔女としての生は、楽しいことも嬉しいこともあったはずなのだが、全てを失った最後の記憶で変色してしまった。変わってしまったということ自体が辛いので、あまり思い出さないようにしている。
「そういえばメルセヴィーナ、新しい本を読みたがっていたでしょう? ちょうど午後からお邪魔する子爵家には大きな図書室があるのですって。一緒に行ってみない?」
「あ……ぜひ!」
自分が上流階級の一員だという自覚は、二年経った今でもまだあまりない。まだ八歳で社交界に出ていないというのもあるだろう。
それでも両親が自分を連れて行きたいという場所には、気合を入れてついていくことにしていた。要は、彼らは自慢の娘を他人に見せたいのだ。それが分かるまで変に遠慮をしてしまったが、今は緊張しつつも「よい娘」と思われていることが嬉しい。
それに、初めての図書室にはやはり興味がある。
「じゃあ準備ができたら出かけましょうね。ドレスはこの間作ったものにしてちょうだい。あなたにとても似合っているから」
「はい、お母さま」
これについてはやや複雑な思いもあるが、ネネファは素直に返事をする。
さっそく部屋に戻った彼女は、侍女に囲まれながら姿見を一瞥した。
そこに映るのは八歳の少女で――年齢こそ違えど前世の魔女と同じ顔をしている。
「どうして……」
最初はこの顔を見た時に安心したのだ。
もしかしたら自分は別の子供の肉体を乗っ取ってしまったのかもしれないと、記憶が曖昧なのは肉体に残る断片を読み取ったせいではないかと心配していた。だから鏡で己の顔を見て、それが確かに見知った自分のものであると分かって安堵した。
ただ同時に、別の疑念も生まれたのだ。
両親が違うのに、何故自分は同じ顔なのだろうと。
魂が同じだから、というのなら、魔女の魂はそれほどまでに強いものかと恐ろしくなってしまう。
魂は肉体によって生じるものだが、肉体が死した後、普通の人間とは違って魔女の魂は地の底へ落ちていく。それを実際にネネファは体験したのだ。体験したが、まさか肉体に影響するほどの力があるとまでは思っていなかった。
「お母さまたちに似ればよかったのに……」
「お嬢様はお美しいですわ」
小さな独り言を侍女に聞かれて、ネネファは赤面する。自分の容姿に不安がっている少女に思われてしまったのだろう。
『ネネファはきれいだと思うぞ。どんな格好をするかはお前の自由だけどな』
幼馴染にそんな言葉をかけられたこともあった。慰めだったのか励ましだったのか、彼の真意を知ることはもうできない。むしろ、処刑宣告のあの最後の言葉が真意だと思うことにしている。
自分はもうあの時とは違う人生を、違う人たちのために送っているのだから。
――そう思っていたのだ。
「ネネファ?」
呼ばれないはずの名に凍りつく。
母と尋ねた子爵家で挨拶をし、「好きに読んでいていいから」と図書室に案内され――そこには先客がいた。
十年前と違い、すっかり大人になった男。
子供時代を共有した幼馴染、彼女を処刑することを決めた一人。
ジズロ・フォング。今はあの国の王になっているはずの彼が何故ここにいるのか。
奥の書棚に向かって何か調べ物をしていた男は、ネネファを見るなり開いていた本を取り落とす。
そうして逃げ出そうと身を翻した彼女に大股で追いつくと、小さな顎を掴んで上を向かせた。
「ど、どなたですか」
ネネファがようやく絞り出せた声はそれだけだ。
上手くない対応だとは分かる。彼の顔を見て何を言うより先に逃げ出してしまったのだから。
十年経っても一目で分かった。それを表情に出してしまった時点で失敗だ。
おまけに彼女は、前と同じ顔をしているのだから。
ジズロは食い入るように彼女を見つめる。
大きな手は今にも彼女の首を捻り潰してしまいそうで、ネネファは己が斬られた首を思い出さずにはいられなかった。母を大声で呼びたいと願う。彼の口から嫌悪の言葉が出るのを聞きたくない。
だが、ぎゅっと目を閉じた彼女に聞こえたのは、まったく別の言葉だ。
「……なんてことを」
絞り出すような声音は苦渋に満ちていた。
ネネファは恐る恐る目を開ける。
首を斬られたあの時、ネネファは目隠しをされていて彼の顔を見なかった。
だから知らない。
分かるのは、今自分を捕まえている彼が泣いているということだけだ。
ぽたぽたと彼女の顔に涙が落ちる。
どうしてそんな目で自分を見るのか。どうして辛そうなのか。
「わ、たしは、メルセヴィーナ・ザユゴ……八歳です」
魔女は死に、国は救われた。
自分は遠い国で生まれ直して、皆に愛されている。そのはずだ。そのはずなのに。
顎を掴んでいた手が離れる。
男の両腕が小さな彼女を抱きしめる。
「ネネファ、お前をそんな体にしたのは、お前のあの弟子か?」
何の話か。今の彼女が子供なのは転生したからだ。
どう言い逃れるべきか。記憶がないふりを貫いた方がいいか。
だがそれより何よりネネファは、「彼」について聞かれたことを無視できなかった。
「グリュがどうしましたか」
彼は、魔女でこそないがネネファの技術を全て叩きこんだ魔法使いだ。どこででもきっと重用される。
師という汚点を自分の手で雪いだ彼は、不自由なく生きられるはずだ。
そう願うネネファの肩の上で、男は言う。
「やつは十年前から魔女の死体を持ち去った罪で追われている」
「……え?」
「お前が命じたわけじゃないだろう。お前はそういうことができる人間じゃないと知ってる。だから最初からやつの仕業だろうとは思っていた。でもまさかお前をこんな目に――」
そこから先をネネファは聞いていなかった。
唐突に、あることを理解したからだ。
彼女は暴れて男の腕の中から脱すると、服の中から手鏡を取り出す。
小さな鏡に映すのは己の首だ。まだ少女の白い首。彼女の指がその上に触れる。
「そんな、まさか」
生まれ変わって、人に愛される喜びを知った。
これから違う人生を送っていこうと思った。
子供の体だから、おかしいとは思っても疑うまではしなかったのだ。
何故自分は、以前と同じ顔をしているのかと。
すっと首に滑らせた指の下、隠されていた魔法脈が浮かび上がる。
それは斬られた首を接ぐためのものだ。
「……生まれ変わったんじゃない。わたしは――」
こんなものは重大な禁忌だ。許されるはずもない。
判明した時点で魔女以上の穢れと看做される禁断の術だ。
「わたしは……蘇生された死者なんだ……」
魔女の幸福は二度目から 古宮九時 @nsfyuki
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