置く手
たなかみふみたか
置く手
三日ほど前に春一番が吹き、俄然春めいてきた春の夕暮れ時であった。
みさえは北村浩二と再会した。
スーパーのパートからの帰り道での出来事だった。
初めは誰かわからなかった。
考え事をしながら歩いていると、「危ないですよ」と、強い言葉で呼び止めた相手が浩二だった。
足もとに犬の糞が落ちていた。それは間違いなく踏んでいたであろう場所にあった。
驚いて声の方を向いたみさえを見て、同じように驚いた顔で声の主は、「三杉…… さん?」と尋ねた。
どこかで見たような顔だが、と、みさえも考えながらそれでもあいまいに笑って頷いた。
そして大学時代にみさえが振った相手だと気づいたのは、彼のはにかんだ笑顔を見た時だった。
ああ、そうだ、こんな笑い方をする人だった。
サークルの仲間の一人ではあったが、影の薄い、良く言えば控えめな男だった。
あの時、銀杏が色づく校舎の陰で真正面からみさえに交際を申し込んで頭を下げた彼の姿が脳裏に蘇った。
既に智一と付き合っていた。
「ごめんなさい」とだけ答えて通り過ぎたその時のみさえは、もう彼を振り返ることはなかった。
それ以来、彼の事を思い出すこともなく、大学生活の記憶の一コマとしてのみ存在した場面に過ぎなかった。
「北村君……?」
なんとか名前を思い出して、もう一度みさえは微笑んだ。
「あ、ごめん。柳瀬さんだったね、今は」
彼の申し訳なさそうな、そしてほんの少しの寂しさが込められた笑顔にみさえの胸が痛んだ。
知らないんだ……
自分を振った女がバツイチになって、パートの帰り道を寂しく歩いている……
教えてあげようか、そして『ざまあ』と思わせてあげようか。
被虐的な考えが頭をよぎる。
「ううん、今は三杉に戻ってるわ」
首を横に振りながら笑顔を作って言ってみた。
浩二は驚いた顔をした。
「まさか…… 柳瀬が死んだのか?」
予想外の言葉にみさえは思わず噴き出した。
「違う違う、離婚したのよ」
あっ、という顔で浩二は次の言葉が出なくなり、目が泳いだ。
「大丈夫よ、ずいぶん前の話だから…… 今は笑い話よ」
みさえは明るく笑いながら言った。
「それより、ありがとう。もう少しで踏んじゃうところだった」
足もとの糞を見ながらみさえは立ち位置を動いた。
「ああ、さっき僕が踏みかけたから……」
そう言いながら手に持った木の枝で犬の糞を道の端に動かす浩二の行動に、みさえは少し驚いた。
「手ごろな枝が落ちていたから、ずらしておいた方が良いかなって」
そう言って、またはにかんだ浩二に、そう言えば、とみさえは思い出した。
サークルではいつも雑用を押し付けられていたっけ、と。
学生時代を思い返すと胸の奥がいつも痛む。いつも仲間たちの中心に居たあの頃の幼さと愚かさが記憶の中で棘として苛む。
木の枝で犬の糞を道路の端に寄せるその手は、ごつごつした手に見えた。
節くれだった『男の手』であり、父も持っていない手でもあり、これまでみさえの周囲には縁のなかった『手』であった。
「北村君こそ今、何をしてるの? この辺りに住んでいるの?」
内心、彼の前から早く消えてしまいたい思いを抑えながら、みさえは尋ねた。
浩二は犬の糞を端に避けながら顔を上げ、
「営業…… かな、今はアンティーク家具を扱っているから」
「アンティーク?」
嬉しそうに答えた浩二に思わずみさえは問い返した。
「うん。古い家具を引き取って、補修や小さなものに作り替えをしたりね。レトロ調で需要はあるんだよ、地味に」
輸入品も扱ってるんだよ、と最後に笑いを付け加えながら、浩二は立ち上がった。
「この近所に見積もりに来て欲しいと言われてね。 ……そう言えば三杉さんの家もこの近くだっけ、確か」
サークル時代のキャンプ合宿で、みさえの家まで皆で迎えに来てくれたことがあった。
あの時に居たのか…… と考えたが記憶にはなかった。
「うん、そうなの。なにせ実家暮らしだからね、いい歳してさ」
その言い方に自嘲を感じたのか、浩二は首を振った。
「別に年齢は関係ないよ、人それぞれだと思うよ」
そう言うと、鞄から冊子を取り出した。
「せっかくだから営業させてよ」
そう言いながら渡された冊子は茶色をベースにした、シックな写真で彩られたアンティーク家具やレトロな家電製品が載っていた。
「有限会社ノールヘイム…… 北の家、集落? もしかして北村君の会社なの?」
浩二は驚いた顔になった。
「うわ、流石だね、一発でバレちゃうとは思わなかった」
そして頭を掻きながら、
「僕一人で細々とやってるんだ。でも少しずつ顧客も付いてさ…… 今日みたいに口コミで依頼ももらえたりし始めてるんだ」
にこにこと、それでも相変わらずはにかむような笑みを浮かべ、浩二は言った。
その笑顔にみさえのパンフレットを持つ手に力が入った。
「凄いね、ずっと頑張ってたのね」
それだけ言うとみさえは浩二に会釈した。
「これからも頑張ってね、久しぶりに会えて楽しかったわ」
そう言うと駆け出しそうになる気持ちを抑えて歩き出そうとした。
「三杉さん!」
浩二の声がみさえの足を止めた。いつか聞いたことのある声だった。春だと言うのにみさえの目には銀杏の黄色い葉が見えたような気がした。
「えっと…… 三杉さんの家に営業に行っても良いかな?」
控えめな声だった。
ごめんなさい、と喉まで出かかった言葉が形を変えた。
「良いけど…… うちには古いものはないわよ」
振り返ることが出来ずにみさえは背を向けたまま返事をした。
「うん、それでも…… 迷惑でなければだけれど」
あの時もこんな声だっただろうか、交際を申し込んできた時の声は。
頷くだけで精いっぱいで、みさえは足早にその場を後にした。
自然に涙が浮かんできたが、その理由は一つには絞れなかった。
夕食が終わるとみさえは自室へ戻ろうと階段を上りかけた。ふと振り返ると父と母がテレビを観ていた。
いつもの光景だ、と今日に限って思った。
浩二の『手』がなぜか浮かんだ。あの手は何を掴もうと頑張って来たのか。
リビングの光景は両親が掴んだものだ。
私のじゃない。
首を振って自室へ戻った。
机に置いた冊子を開くと、『想い出の家具を残しませんか?』と、問いかける言葉が載っていた。
古くなった箪笥が小物入れに形を変えた写真があった。
「家具をバラバラにして作り直しているのか」
そう呟いて、ふとかつて嫁入りの時に持たせてもらった箪笥はどうなったのだろうかと思った。
別に未練は無いのだが、と思うと同時に、奪われた我が子の顔が脳裏に蘇った。
今年は十四。来月に面会があるから、何か贈り物をしてあげようか。
冊子を開くと、アンティークなレターケースが目に留まった。
(こんなのも扱ってるんだ)
息子の智則に似合いそうな気がした。
そして同時にまた気持ちがざらついた。
息子のための贈り物、と言ったら彼はどんな顔をするだろうか。
哀れむだろうか。
同情するだろうか。
それとも蔑むだろうか。
いずれにしろ幻滅することだろう。
(それで良い)
浮かれた自分への罰だ。十六年経って下される罰になる。
眼中になかった、と言えばそれまでだが、それでも真剣に向き合ってくれた心を無碍に袖にした罰。
みさえは薄く笑うと、冊子のメールアドレスを見た。
キーボードを叩く音が静かに響いた。
場所を指定したのはみさえだった。
明るくやわらかな陽射しが零れるオープンテラスのカフェだった。
時間の十分前だったにもかかわらず浩二は先着して椅子に掛けていた。
若い男女の多い中で、遠目に浮いた姿だったが、不思議と胸が高鳴った。
みさえを見つけると浩二は思わず立ち上がってみさえのために椅子を引いてくれた。
「え? なに? そんなに気を遣ってくれなくても」
「で、でも、一応は商談だから…… さ」
どこかぎこちなく浩二は笑った。
珈琲を頼み、ついでにサンドイッチも注文した。
「ワリカンよ、今日は」
みさえはそう念押しした。
何かを言いかけた浩二を押し留め、
「私がお願いするために時間を取ってもらったの。だから接待みたいにしないで」
と、言った。浩二はあいまいな笑みを浮かべて頷いた。
鞄から数日前にもらった冊子とは違う冊子を出して、
「レターケースってことだね」
と、幾枚か頁を繰ると洒落たアンティークのレターケースが載っていた。
「イギリスのものなんだけれど、大きさはね……」
メジャーを取り出し、目の前でサイズを具体的に説明し始める浩二が眩しく見えた。
「ただ、値段が少し張るから、もう少し安いのならこっちのフィンランドのさ……」
淀みなく熱心に勧める浩二の熱意にみさえは言い出しにくくなっていたが、それでも言ってみた。
「私じゃないのよ、使うのは。 ……息子なの」
そして浩二の目を見つめた。
少し戸惑ったような浩二の目に、微かな罪悪感を感じてみさえは胸が痛んだ。
「そうなんだ、……そうだよね、いくつのお子さんなの?」
浩二の問いかけに、「十四になるわ」と答えた。
「そう、じゃあレターケースもかっこ良いのが良いね、友達に羨んでもらえるようなのが」
上滑りした言葉に聞こえるのは浩二の動揺なのか、それとも私の動揺ゆえなのか。
「来月の下旬に面会があるの。その時に贈ってあげたいのよ」
そう言ったみさえの言葉に浩二の息が止まった。
「一緒じゃないの?」
と、聞く浩二に頷いて「親権、取られちゃったから」と、へらっと笑って見せた。 ……つもりだった。
少しだけ間をおいて浩二は言った。
「割引するよ。だからこのイギリスのにしよう」
「同情ならいらないわよ」
みさえは小さく、しかし強くそう言った。
「違うよ。意地だよ」
「意地?」
浩二は頷いた。
「勝手な…… 僕の意地だよ。三杉さんに悲しい思いをさせた柳瀬への僕の意地だ」
「なにそれ? カッコつけてるの?」
みさえは抑えきれずに辛辣になった。
「そうだよ、僕の好きな人を大切にできなかった柳瀬への僕の意地だよ」
その言葉が胸に刺さった。
俯いて零れそうな涙を見られないようにしてみさえは言った。
「なんで? 私、高慢な女だったのよ。北村君の事もすぐに思い出せないくらいに……」
浩二は笑った。
「それは仕方ないよ。三杉さんには三杉さんの事情があったんだから。でも…… 僕はそれでも好きだったから」
冷めかかった珈琲を飲み干しながら、浩二は続けた。
「正直、離婚したって聞いて……喜んだ僕が居たんだ、最低だろ。三杉さんは今はフリーなんだって、最低なこと考えた」
大きく息を継いで、さらに、
「一瞬、柳瀬に感謝した。三杉さんに執着しなかった柳瀬に…… だけど子供から母親を奪うのは駄目だ。柳瀬は僕以上に最低だ」
みさえは泣き顔を上げて浩二を見、そしてその目に涙が溜まっていたのに驚いた。
「僕は、父子家庭なんだ。母親は僕が小さい頃に死んだんだ。親父は…… 親父は最後まで僕に詫びていたよ。『俺が代わりに死ねばよかった』って」
直視できずにまたみさえは俯いた。
自分とは状況がまったく違う、けれども私に共感してくれている。
同情ではあるが、憤ってくれている。
浅はかだった。
みさえは自分が少しも成長していないことに歯噛みした。
試そうなどと浅はかだった。
思わず立ち上がると、振り返ることも出来ずにそのまま店を一人で出た。
声をかけてもらったような気がしたが、そのまま小走りに駅へ向かった。
改めて詫びのメールを浩二に送ったのは二日してからだった。
イギリスのレターケースを手配してもらうことにし、浩二にはもう一度会った。
来月の二十日にホテルのラウンジで息子に会うから、その後すぐに送れるようにしたいと伝えた。
そしてカフェのお金を払うと言ったが、浩二はあの後周囲の注目を浴びて居たたまれなかったと笑いながら、
「だから罰として僕に奢らせてください」
と言った。
そして、
「もう一度、交際を申し込ませてください」
と、真剣な強い声でみさえに伝えた。
――みさえは即答できなかった。
翌月、智則との面会はホテルのラウンジで、だった。
不機嫌そうな息子の姿は相変わらずだったが、それでも久しぶりの姿にみさえの心は弾んだ。
面会は一時間と決められていた。
それでも三十分もすると、智則は苛立ちを隠せない様子で、みさえの言葉におざなりにでも返事をしなくなっていた。
「あのさあ、この際だから言っておくけどさ」
低い声で智則が口にした。
テーブルの上に置いたその握り拳が固く握りしめられていた。
「いい加減、母親面は止めてくれない?」
「え?」
みさえの体が固まった。
「俺を捨てておいて、今さら母親面はやめて欲しいんだけど」
捨てた? 誰が、誰を?
「今日まで付き合って来たけどさ。俺にはもうちゃんと家に母親が居るんだよ、あんたの出る幕じゃないんだよ」
智一が再婚したのは聞いていた。だが、智則の母は私だ。
「親父から聞いたぜ。俺の事、手抜きで育てようとしたって。で、それを指摘されて俺を放って出て行ったって」
薄ら笑いを浮かべた息子の顔が、元夫の顔と同じに見えた。
「それは……」違う、と言いかける前に智則は立ち上がった。
「もうこれっきりだから。呼ばれても俺は来ないからな。 ……あんたは母親失格なんだよ」
手を伸ばしかけたが、それはもう誰も居ない空間に虚しく踊るだけだった。
ただ涙が出た。
(違う、捨ててない!)
叫びたかったが心の片隅で、じゃあなぜ別れたのだと自問する自分が居た。
(耐えられなかったから、あの人に、あの母親に)
息子と二人で暮らす覚悟は、弁護士によって砕かれたのだ。
左手首の古傷を見つめると、母に頬を叩かれた痛みと共に記憶が蘇った。
目の前に冷たい顔をした智一が、元夫が浮かんで息子を奪って去って行く姿が映る。その行き先にはあの義母が勝ち誇った顔で立っていた。
(助けて、誰か…… お母さん)
足もとが崩れそうになっていたその時、その左手に硬い手が被さった。
目を上げると浩二が居た。
「ごめん、気になって様子を見てた。贈り物が本人のイメージに合いそうか見ておきたいと思って……」
嘘だ。
今日の場所は以前の会話の中で伝えた覚えがあった。
『三杉さんに似た子なのかな』と笑いながら聞いていた浩二の姿が思い出された。
みさえの手が重ねられた浩二の手を握りしめる。縋りたいと思った。
この硬い手に縋りたいと思いつつも、その資格は私にはないとも感じていた。
涙はとめどなく零れたが、その手のおかげで声は出さずに済んでいた。
今だけは、甘えさせてもらおう。
みさえはまた硬い手を強く握った。
置く手 たなかみふみたか @-tanakamiF-
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