第3話 結末
その日も、人の少ない道を選んで歩いていた。
声が出ない状態で人に会うのが怖かった。何かあっても説明できないし、誤解を解くこともできない。できるだけ誰とも関わらずに帰るつもりだった。
背後から、気配がした。
足音は静かで、規則的だった。振り返ろうとして、身体が少しだけ遅れた。理由は分からない。ただ、今振り返ると良くない、という感覚があった。
それでも、立ち止まってしまった。
そこに、女が立っていた。
最初に違和感を覚えたのは、距離だった。近すぎるわけでも、遠すぎるわけでもない。ただ、人と向き合うときに自然に取る距離と、微妙にずれている。半歩分、こちらに踏み込んでいるような気がした。
顔を見ようとして、視線が滑った。
目鼻立ちはあるはずなのに、うまく捉えられない。輪郭はぼんやりしているのに、服のしわや髪の一本一本は妙にくっきり見えた。視線を合わせようとすると、焦点がずれる。
女は、私の喉を見ていた。
じっと、確かめるように。
その視線だけが、やけに重かった。
女の口が動いた。最初は、音が聞こえなかった。私は自分の症状のせいだと思い、聞き取れなかったのだと考えた。
次の瞬間、声が届いた。
「話を、聞いてほしいの」
はっきりとした声だった。大きくもなく、感情も強くない。ただ、妙に耳に残る。
私は反射的に声を出そうとした。喉が動いたのが分かった。でも、やっぱり音にならなかった。
女は、それを見て、少しだけ安心したように見えた。
笑ったわけではない。でも、緊張がほどけたような、そんな表情だった。
「いいの」
女はそう言った。
「あなたは、話さなくていいから」
それから、女は話し始めた。
内容は、はっきり覚えていない。仕事のこと、家族のこと、誰かに遮られた話、途中で止められた言葉。話題は飛び、順序もなかった。
ただ、一つだけ共通していた。
「最後まで、聞いてもらえなかった」
何度も、そう言っていた。
私は、ただ頷いた。
声が出ないから、相槌も打てない。遮ることも、質問することもできない。ただ、目の前に立って、話を受け取るだけだった。
女は、それを望んでいたようだった。
話している間、女の姿はずっと見づらかった。目を離すと、そこにいないような気がするのに、視線を戻すと、確かに立っている。存在の輪郭が、常に揺れていた。
怖い、と思った。
でも、逃げる理由が見つからなかった。
女の話は、いつ終わるのか分からなかった。時間の感覚が薄れていった。街灯の明かりが、いつの間にか一つ減っていることに気づいて、初めて長く立ち止まっていると知った。
「ちゃんと、聞いてほしかっただけなの」
女は、そう言って、少しだけ間を置いた。
「それだけなのに」
その言葉が、妙に重く感じられた。
やがて、女は話すのをやめた。私を見て、ゆっくりと頷いた。
「ありがとう」
そう言って、背を向けた。
歩き出すとき、女の足音は聞こえなかった。気づいたら、そこにはもう誰もいなかった。
私は、その場に立ち尽くしていた。
胸の奥が、空っぽだった。
深く息を吸った。無意識に、声を出そうとした。
「……あ」
音が出た。
驚くほど、自然に。
喉に違和感はなかった。痛みもなかった。まるで、最初から声が戻る予定だったみたいだった。
その翌日、ニュースから失声症の話題が消えた。職場でも、声が出ない人はいなくなった。皆、何事もなかったように話していた。
原因不明の一時的な症状。もう心配はいらない。
私は声を取り戻した。でも、あの女の話の内容は、ほとんど思い出せない。
覚えているのは、あの見た目の説明しづらさと、
「話を、聞いてほしいの」
という言葉だけだ。
誰かの願いは、確かに叶った。
その代わりに、何人が声を失い、何人が孤立したのか、誰も知らない。
私自身も、もう数えようとは思わなかった。
声は、出る。
だから、これ以上話す理由はない。
咽ぶ花 綴葉紀 琉奈 @TuduhagiLuna
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