第2話 孤立
声が出ない状態にも、少しずつ慣れていった。
慣れた、という言い方が正しいのかは分からない。ただ、声を出そうとして失敗する回数が減った。最初から出ないものとして扱うようになっただけだ。
職場では、私以外にも声を失った人が増えていた。全員が同じ症状というわけではなく、かすれる人もいれば、ほとんど音にならない人もいた。共通しているのは、痛みがないことと、原因が分からないことだった。
会議は中止になった。必要な連絡はチャットで済ませる。上司は「しばらくはこの体制で」と言った。文字に起こされたその言葉は、どこか軽く見えた。
誰も困っていないように振る舞っていた。
実際、仕事は回っていた。遅くはなったが、止まりはしない。声がなくても、最低限の意思疎通はできる。そう思われていた。
でも、細かい部分が、少しずつ欠けていった。
確認の一言が遅れる。冗談が通じない。軽い相談ができない。言葉にするほどでもない感情が、全部溜まっていく。
昼休み、休憩室で同じ症状の同僚と目が合った。互いに、どう声をかけていいか分からず、結局何もせずに視線を逸らした。スマートフォンを見せ合うほどの用件もなかった。
沈黙は、伝染する。
ニュースでは、失声症の話題が少しずつ増えていた。ただし扱いは小さい。季節性の体調不良、ストレス、疲労。どの記事にも、決定的な言葉はなかった。
「命に別状はありません」
その一文が、必ず添えられていた。
私は、その言葉を見るたびに、息が詰まるような気分になった。命に別状がなければ、声がなくてもいいのか。そう問いかける相手も、問いかける声も、なかった。
外に出るのが、ますます怖くなった。
人とすれ違うだけで、距離を測ってしまう。近すぎないか。長く同じ空間にいないか。自分が原因で、誰かの声を奪ってしまうのではないか。
根拠はない。でも、考えずにはいられなかった。
ある日、エレベーターの中で、隣に立っていた男性が、突然喉を押さえた。咳をしようとして、音が出なかった。目が合った瞬間、私は視線を逸らした。
あの人も、そうなるのだろうか。
そう考えた自分が、怖かった。
声が出ないことで、一番つらかったのは、誤解を解けないことだった。
店で注文を間違えられても、訂正できない。道を聞かれても、説明できない。困っている顔をされるたびに、こちらが悪いような気持ちになる。
あるとき、駅で体調を崩した女性を見かけた。助けを呼ぼうとして、声が出ないことを思い出した。近くにいた人に目で訴えたが、気づいてもらえなかった。
結局、別の誰かが気づいて対応した。私は、何もしていない人として、その場を離れた。
自分が、役に立たない存在になったような気がした。
それでも、世界は続いていく。
失声症の人は増え、減り、また増えた。誰が最初なのか、誰が原因なのか、分からないままだった。
私は、いつからか、声を取り戻すことを考えなくなっていた。
この状態が、いつまで続くのか。そればかりを考えていた。
夜、家で一人になると、無意識に声を出そうとすることがあった。テレビに向かって返事をしそうになり、途中で止まる。独り言も言えない。
沈黙の中で、自分の考えだけが、やけに大きく響いた。
誰かに話したい。
そう思って、すぐに打ち消した。
どうせ、話せない。
その頃から、私は人の声を、少し怖いと感じるようになっていた。
自分には出せないものを、他人が当たり前のように持っている。その差が、静かに、でも確実に心を削っていった。
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