咽ぶ花
綴葉紀 琉奈
第1話 症状
最初は、喉の調子が悪いだけだと思った。
目が覚めて、無意識に挨拶をしようとしたとき、口から出たのは空気だけだった。音にならない息が、唇をすり抜ける感触だけが残った。驚いて咳をしたが、それも音にならなかった。
痛みはない。違和感も、ほとんどない。ただ、声がない。
何度か試しているうちに、妙に落ち着いている自分に気づいた。風邪の引き始めだろう、昼には戻るだろう。そう思おうとしていた。
洗面所の鏡の前で、口を開け、舌を動かし、発声の形を作った。喉は動く。息も通る。それなのに、音だけが存在しない。自分の身体から、声という機能だけが抜け落ちたみたいだった。
会社に連絡を入れようとして、そこで初めて困った。電話が使えない。通話アプリも意味がない。仕方なく、メッセージで事情を打ち込んだ。
〈声が出ません。病院に行きます〉
返ってきたのは、短い言葉だった。
〈無理しないで〉
〈大丈夫?〉
それ以上、会話は続かなかった。
病院では、受付でも診察室でも、筆談とスマートフォンでやり取りをした。医師は喉を覗き込み、首を傾げ、「異常は見当たらない」と言った。声は、ちゃんと聞こえていた。
「一時的なものだと思います」
そう言われて、私は頷いた。礼を言おうとして、また声が出ないことを思い出した。
診察室を出るとき、医師はすでにカルテに視線を落としていて、こちらを見ていなかった。呼び止めようとしたが、できなかった。
帰り道、街の音がやけに遠く感じられた。車の走る音、人の話し声、すべてが一方通行だった。こちらから返す手段がないだけで、世界が急に厚い壁の向こうに移動したみたいだった。
その日は、誰とも会話をしていない。
家に戻り、テレビをつけ、ニュースを眺めた。画面の向こうで人が話している。私は頷いたり、首を傾げたりしたが、意味はなかった。声が出ないというだけで、自分が世界から切り離されていく感覚が、少しずつ強くなっていった。
夜になっても声は戻らなかった。
眠る前、喉に手を当ててみた。脈はある。温かい。異常は感じられない。それなのに、声だけがない。この状態がいつまで続くのか、考え始めて、やめた。
まだ、この時は思っていなかった。
これが、私だけの問題ではないことを。
翌日、外出先で、同じ症状の人を見た。
近所のコンビニで、レジに立っていた若い女性が、会計の途中で口を開けたまま止まっていた。何かを言おうとしているのは分かる。でも、音が出ていない。
店員が何度か聞き返し、女性は首を振った。困った顔で、スマートフォンを取り出し、画面を見せていた。
その光景を見た瞬間、胸の奥が冷えた。
私だけじゃない。
それが分かった安心と、言いようのない不安が、同時に押し寄せた。
家に戻って、ニュースを検索すると、小さな記事が出てきた。原因不明の失声症。数名が同様の症状を訴えている。重症例はなし。医療機関は経過観察を推奨。
その扱いの軽さに、少しだけ腹が立った。
声が出ないだけ、と言われる。確かに、命に関わるわけじゃない。でも、声が出ないだけで、説明ができない。助けを呼べない。誤解を解けない。
何より、存在している感じが薄くなる。
その日の夜、職場の同僚から連絡が来た。
〈今日、声出ない人もう一人いた〉
私は返事を打った。
〈同じ症状かも〉
画面の向こうで、誰かが既読をつけた。返事はなかった。
数日後、同じ症状の人は、私の周囲だけでも三人に増えた。会議は中止になり、やり取りはすべて文字になった。誰も怒鳴らない。誰も泣かない。悲鳴が出ないから、深刻さが共有されない。
静かな職場だった。
私は次第に、人と会うのが怖くなった。
声が出ない状態で誰かと向き合うと、相手の表情ばかりが目に入る。困惑、苛立ち、気まずさ。こちらは何も返せない。ただ見ているだけだ。
外出を控え、遠回りをして、人の少ない道を選ぶようになった。それでも、同じ空間にいるだけで、誰かの声が消えていくのではないか、という考えが頭を離れなかった。
自分が原因なのではないか、と思い始めていた。
その頃から、喉の違和感は消えていた。声が戻らないことだけが、当たり前になっていた。
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