水棲の筆
枕川うたた
第1話
私の名前は「美玲(みれい)」という。
この呪わしいほどに絵画的な名を与えられた瞬間から、私の運命はジョン・エヴァレット・ミレーの影に塗り潰されていたのかもしれない。
放課後の第四実習室は、常に水死体の匂いがした。いや、それは私がパレットの上で執拗に練り合わせる、ビリジアンとプルシャンブルーが放つ、古びた泥のような芳香だった。
美大のなまぬるい講評会で、講師や学生たちが「個性の尊重」だの「現代性」だのと垂れ流す安っぽい言葉を思い出すたび、私の筆先は呪いのように震えた。
彼らは何も分かっていない。
美しさとは、完成の瞬間に差し出される「生贄」のことだ。
一八五二年のロンドンで、ミレーがモデルの命を削ってあの狂気的な静止を掴み取ったように、私もまた、この現代という空虚な時代に本物の「死」を打ち立てなければならない。
「美玲、そろそろ、始めてもいい?」
背後から、湿った声がした。
振り返ると、そこに菫(すみれ)が立っていた。
彼女は、私がリサイクルショップの隅で見つけてきた、安物の、けれど本物のレースが何層にも重なったドレスを抱えている。
それはかつて、誰かの幸せを祝うための婚礼衣装だったのかもしれないが、今の私には、彼女を水底へ繋ぎ止めるための鉛の枷にしか見えなかった。
「……着替えて。菫。今日は、水の色が昨日よりもいいわ」
菫は淡く笑い、ドレスのファスナーに指をかけた。
彼女が衣服を脱ぎ捨て、あの重いレースを身に纏うとき、実習室の中央に据えられた特注のガラス水槽は、一気に「墓標」としての重みを増す。
彼女が水に沈むたび、アトリエの空気から酸素が奪われ、代わりに冷たい水の気配が満ちていく。
私は筆を構え、水槽の底で揺れる彼女の白い喉を見つめた。
ふと、ドレスの裾から覗く彼女の足首に目が留まる。
昨日まではなかった、魚の鱗のような硬い光が、肌の裏側からじわりと浮き出し始めていた。
私は恐怖を感じる代わりに、歓喜で唇を歪めた。
それは、私の絵筆が彼女の人間性を奪い、本物の「オフィーリア」へと造り替えている証左に他ならなかった。
思えば、私は彼女の「中身」に興味を持ったことなど一度もなかった。
菫がどんな音楽を好み、休日に何を食べているのか。
そんな凡庸な情報は、私のキャンバスを彩るためには何の役にも立たない。
私が求めていたのは、彼女の肋骨の曲線が描く陰影であり、水圧に押し潰される肺が吐き出す、最期の宝石のような気泡だけだった。
けれど、放課後のたびに繰り返されるこの密室の儀式は、私たちの間に、名づけようのない奇妙な連帯を育てていた。
制作が三時間を超えた頃、私は一度筆を置く。水槽から上がった菫の肌は、氷のように冷たかった。
ガタガタと小刻みに震える彼女の身体に毛布をかけ、温かい缶コーヒーをその手に握らせる。
それは、モデルとしての鮮度を維持するための、事務的な介抱のはずだった。
だが、震える指先でコーヒーを啜る彼女の、血の気の引いた唇を眺めているとき。
あるいは、私の汚れた指先が彼女の冷えたうなじに触れたとき。
私の胸の奥に、絵具の毒よりも鋭い疼きが走る。
「美玲の指、温かいね」
菫が、虚ろな瞳で私を見上げて囁く。
「私の温度を、全部美玲が吸い取ってくれているみたい。……嬉しいな」
「嬉しい?」
「だって、こうしている間だけ、私はあなたのものになれている気がするから」
その言葉に、私は不意に思い知らされる。
私は彼女を愛しているのだ。ただし、一人の人間としてではない。
私の筆先からしか生まれることのない、世界で唯一の、私だけの「死体」として。
「……そうね。あなたの温度は、全部このキャンバスに閉じ込めてあげたわ」
私は彼女の濡れた髪を、執拗なまでに優しく指で梳く。
愛とは、相手を安全な場所に置くことではない。
自分以外の誰も触れられない深淵へ、共倒れになるまで引きずり込むことだ。
休憩を終え、菫が再び水槽へ戻る。
水中に横たわった彼女は、もはや私の指示を待つまでもなく、完璧なオフィーリアの角度で静止した。
水に浸かった彼女の肌は、光の屈折のせいか、どこか現実味を欠いた色味を帯びている。
「ねえ、美玲。……なんだか、身体が重いの」
水槽の底から、泡と一緒に微かな声が漏れた。
「ミレーの絵にある、あの泥の匂いがする。私の喉の奥から、どんどん冷たい水が湧き出してくるみたい」
私は筆を止めず、彼女の胸元に焦点を合わせた。
ふと、ドレスのレースの隙間、その白い肌の上に、奇妙な染みを見つける。
それは内出血のような、あるいは絵具をこぼしたような、毒々しい紫色の斑点だった。
……いや、斑点ではない。
よく見るとそれは、毛細血管が異常な形に浮き上がり、まるで花弁のような幾何学模様を形成しているものだった。
私は、その不気味な模様から目が離せなくなる。
恐怖よりも先に、私の画欲がその「異常」を祝福していた。
彼女の肌に浮かんだその紫の紋様を、私はパレットの上で忠実に再現しようと試みる。
「ふふ……。もっと、描いて。私の心臓を、そのビリジアンで塗り潰して」
菫は水槽の底で、恍惚とした笑みを浮かべた。
彼女の指先が、ガラスの内側をゆっくりとなぞる。
カリ……、カリ……。
耳障りな音が実習室に響くたびに、キャンバスの中の「オフィーリア」は、彼女の命を吸い取って鮮やかさを増していく。
気がつけば、実習室の床には、いつの間にか薄く水が溜まっていた。
空調の音は止まり、代わりに遠くで、川のせせらぎのような音が絶え間なく聞こえてくる。
私はもう、自分が絵を描いているのか、それとも菫をどこか別の世界へ沈めているのか、その区別さえつかなくなっていた。
次の更新予定
水棲の筆 枕川うたた @makurakawautata
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