第五章~影のマウンド~

夜になって、寮の窓からグラウンドを見下ろした。照明は落ち、マウンドだけが月明かりにうっすら浮かんでいる。マウンドに誰かの影があった。よく見ると、その立ち姿、グラブの構えた位置、指の微妙な震え。あれは僕だった。

 目の前の自分。昼間の六回裏、1アウト満塁で投じたデッドボールを最後に試合は0対1で終わったあの日の僕。時間も空気も歪み、記憶と現実が交錯するその場所に、もう一人の自分が立っていた。僕はそこから、少し高い視点で世界を見ていた。自分の体はもう、マウンドにはいない。ただ、後継と記憶だけが残り、僕の影がそこに映し出されている。あの瞬間、理解した。僕がずっと抱えていた「負けていない、投げていない」という幻想は、死後の世界においても消えることはなく、ありのままの自分を映していたのだ。ベンチの歓声も、ブラスバンドの演奏も、白球の軌跡も、今や届かない。風がそっと吹く。夏の匂いが通り過ぎる。土と芝の香りとほんの少しの汗の匂い。生の世界ではもう感じることのできない、それでも確かにあった匂いが、僕を包む。視界の端に、マウンドの上の影が微かに揺れる。まるで「これがあなたの場所だ」と告げるように。僕はもう、手を伸ばすことも声を出すこともできない。そして静かに理解した。敗北の裏側で支払われる代償は、誰かではない。生きている間に、必死で誤魔化してきた罪悪感と記憶のすべては、自分自身が背負うものだった。僕はもう、その代償を超えて、死後の世界から自分を見つめている。マウンドに残る土は冷たく、光は歪み、音は届かない。けれど、そこに映る自分の影。それは間違いなく、僕だった。

 夏の風が通り過ぎ、歓声も、ボールの感触も、もう関係のない世界で、野球は続いていく。マウンドはまた誰かのものになる。だが、僕の影はそこに残り、永遠にこの夏を、そして敗北を見つめ続けるのだ。


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マウンドパラドックス 菅哉 @suger_beast

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