第四章~Alter ego~

そのままK高校は順調に勝ち進み、僕がマウンドに上がることはなく準決勝進出を決めた。相手は奇しくも去年、準決勝で試合をしたS高校だった。今年のS高校は去年対戦した時よりも戦力が充実しているようだったが、なぜか負ける気がしなかった。S高校だけには。

 準決勝前日、監督に呼び出された。廊下の奥の静かな部屋に入ると、監督は無言で僕を見つめ、しばらく沈黙が続いた。

 「明日の試合、お前を先発ピッチャーとして使う」

 言葉は想像より短く、余計な説明はなかった。僕は返事をして、軽くうなずいた。言われたことは理解できる。しかし、心のどこかで違和感がくすぶっていた。

 「今年は頼むぞ」

 言葉自体は普通だ。けれど、なぜか心の奥に小さなざわめきが生まれた。理由は分からない。ただ、去年の夏のこと、準決勝の記憶の欠落が、薄い霧のように頭をかすめる。

 「失礼しました」

 僕は部屋を出て、寮の窓からグラウンドを見下ろした。照明に照らされたマウンドは、静かで、そして妙に近く感じられた。立つべき場所。理解はある。しかし、身体がまだそこに向かおうとしていない。

「明日、僕は本当にここに立つのだろうか」

 この時はまだ明日マウンドに立つ自分の姿を想像することさえできなかった。

 次の日になって、予定通り僕が九番投手として試合に出ることになった。胸の奥に違和感がくすぶっていたが、仕方ない。マウンドに上がる。投球練習が終わるとキャッチャーがマウンドによってきて声をかけてきた。

 「今年は絶対大丈夫だから。自信を持って投げろ」

 言葉の意味は分からなかった。けれど、先発を任された以上、責任を持って投げるしかない。僕は静かにプレートに立った。

 投球は冴えていた。五回まで相手打線をノーヒットに抑える。しかし、K高校も打撃に苦しみ、五回まででヒット二本、得点なし。試合は硬直した空気の中で進んだ。六回の裏、再びマウンドに立つ。先頭バッターに投じた初球、カーブがすっぽ抜けてデッドボールになった。その瞬間、胸の奥で違和感が波のように広がる。何かがおかしい。でも何がどうおかしいのかはまだ分からなかった。続く送りバントと連打などで1アウト満塁となる。この危機的状況でキャッチャーが審判に声をかけ、タイムをとり内野全員がマウンドに集まる。また、ベンチからも伝令が送られるようだ。マウンドにベンチから送られたのは六月にいなくなったはずのエースの阪田先輩だった。阪田先輩を目の前にして、すべてを悟った。視界がぐらりと揺れる。胸の奥が凍りつくように冷たい。記憶の断片が頭の中で暴れだした。

 去年の夏、K高校は準決勝で敗退した。それは延長十二回の裏、僕の押し出しデッドボールが直接的な敗因だった。僕は一年生で背番号二十をつけ、準決勝の七回からマウンドに上がり、好投を続け延長十二回まで投げ抜いた。しかし僕は、「この試合で僕は投げていない」、「負けていない」と思い込み、それが事実だと信じていた。阪田先輩がかけてくれた「お前のせいじゃない」という優しい声さえ、僕には非難の言葉として聞こえ、次第に先輩を心の中から消し去っていた。そのすべてのパラドックスが、今、目の前で崩れ落ちた。視界が暗く揺れ、時間が止まったように感じた。あの夏の延長十二回、押し出しデッドボール、敗北の重み、すべてが一気に蘇る。僕は一年生として投げた事実、阪田先輩の優しさを非難として誤解していたこと、そして自分が抱えていた罪悪感を一度に思い知る。阪田先輩は静かにベンチに戻る。胸の奥で何かが弾け、視界が揺らぎ、マウンドに立つ感覚と、試合の音が重なり合う。歓声も、白球を投げた感触も、真夏の青空も全部頭の中で錯綜する。

 そして悟った。僕がずっと信じていた「負けていない、投げていない」という幻想はもう存在しない。あの夏の敗北も、押し出しも、阪田先輩の言葉も、すべて現実としてここにあったのだ。マウンドの土は冷たく重く、光は異様に歪む。1アウト満塁、球は僕の手にある。対する打者にベストボールを投げた。しかし、球は奇しくも相手打者に吸い込まれていった。デッドボール。去年とほぼ同じ展開。目の前に広がる光景、記憶、時間、すべてが混ざり合う。僕は震えながらも、これが現実だと認識するしかなかった。スコアボードの「0-1」が鮮明に光る。胸の奥で何かが壊れる感覚。時間が歪み、夏の空気が重く、鈍く、僕を押し潰す。僕はこの一点を最後にマウンドから降りた。そのまま試合は進み、終わった。スコアは動かないまま、0-1。あの一球が、最後まで試合のすべてだった。

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