第三章~初夏と絵空事~

大会一週間前、監督が練習後のミーティングの後、夏の大会でベンチに入る二十人に背番号を配った。県立K高校野球部の部員は五十人を超えていて、全員が背番号が縫われたユニフォームを着れるわけではない。番号順に名前が呼ばれるたびに、小さな空気の揺れが起きる。選ばれた者と、そうでない者。その境界は想像しているよりずっと明確だった。

「背番号二十、森平」

 僕の名前がそう呼ばれた。この感覚は初めてではない。去年も一年生ながらこの番号を背負った。二十番はエースの番号ではない。絶対的な主力でも、将来を約束された存在でもない。必要になれば使われるが、基本は控え。そういう立ち位置だ。それでいいと思っていた。番号を受け取るとき、監督と目が合った。

 「今年は頼むぞ」

 その言葉が、誰に向けられたものなのか、少しだけわからなかった。僕は軽く頭を下げて、元の位置に戻った。

 背番号を渡し終えると、監督はそれ以上に何も言わなかった。選ばれた二十人がそのままグラウンドに残る。呼ばれなかった選手たちは、黙って道具を片付け始めた。人数が減ったグラウンドは、広く感じられた。声も足音もどこか間が空いている。僕は配られた背番号を見下ろした。二十という背番号が記憶よりも少し重く見えた。去年も同じ番号だった。それ以上の意味は考えないようにした。初戦の相手、球場。話題は自然と先のことに移っていく。グラウンドの外ではもう応援の準備が始まっているらしい。応援練習の声が遠くから聞こえたような気がした。

 寮に戻る途中、ふとグラウンドを振り返る。照明は点いていない。それでも、マウンドの位置だけは、はっきりと分かった。ただ、そこに立つ感覚がどうしても浮かばなかった。立つべき場所だという理解だけが、頭の中に残っていた。夏の大会は、もう始まっているような気がした。

 夏の大会はあっという間に始まった。ユニフォームに袖を通し、背中の二十を確かめる。数字の重みを僕は知っている。知っているはずなのに、それがどこから来た感覚なのかは分からない。一回戦の相手は、毎年一回戦か二回戦で姿を消すチームで、勝ち上がってきた例はほとんどない。誰もが当然のようにK高校の勝利を思い描いていた。

 ベンチに入ると、夏の匂いがふわりと鼻をくすぐった。焼けた土と芝の香り、汗の匂いが混ざり合って、少し重く、しかしどこか懐かしい。スタンドからの応援の声、ブラスバンドの奏でる音、ボールがグラブに収まる音。いろいろな音が重なり、不思議と一つ一つがどれも遠く、届きそうで届かないように感じられた。試合前に監督は短く言った。

 「いつも通りやるだけ。最低限のレベルの高い方が勝つ。」

 その「いつも」が僕には少し曖昧だった。スタンドからの応援が、波のように押し寄せてくる。打球音が乾いていて、空気を裂くようだった。僕はベンチで戦況を追っていた。スコア、アウトカウント、ランナーの位置。全部、冷静に理解できている。だから問題はないはずだった。ただ、マウンドだけが視界に入らない。視線を向けても、そこに立つという発想がうまく結びつかない。立つべき場所だという理解だけが、頭の奥に沈んでいる。隣の先輩がグラブを叩いている音だけが、やけに大きく聞こえた。彼の横顔を見て、なぜか胸の奥がざわつく。理由は分からない。ただ、過去に何かがあったという感触だけが残っている。試合は中盤に差し掛かり、K高校は四回に相手のミスを突き先制点を奪った。その後も着実に追加点を重ね、攻守が噛み合う。スタンドの声援が波のように押し寄せる中、ベンチから見える景色は、ひたすら熱く、しかしどこか遠かった。最終的には八対一。七回コールドでK高校の勝利が決まった。その瞬間を僕はただ見ているだけだった。

 試合終了後、ベンチから出ると次の試合のスケジュールが頭をかすめた。まだ大会は始まったばかりだ。次の相手は、今日の相手よりも手強いかもしれない。それでも胸の奥に違和感を覚える。なぜか、マウンドのあたりだけが妙に遠く、そして妙に近く感じられた。

 「何もおかしなことは起きていない」

 自分にそう言い聞かせながらも、心のどこかで、次の試合、その次の試合、そしてさらにその先で何かが変わる予感がしていた。

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