第3話:魔法使い

 目が覚めると部屋はうっすらと明るかった。カーテンの隙間から覗く空は青に染まっていて、まだ夜と朝の境を越えていない。


 この家で変わらない日常を過ごしていても、いつとはなしに空気が入れ替わっているこの目覚めの瞬間が好きだった。鼻から喉へ、喉から肺へ、ひんやりとした空気が身体を満たしていく。


 だけど今日は、そんな無味無臭の空気ではなかった。部屋全体にジビエの匂いが広がっている。


 身を起こして鍋に目を向けた。コトコトと蓋が鳴り、隙間から湯気がこぼれている。


 そちらに意識を向けていると、反対側から気配がした。振り向けば、璀璨たる灰青色の瞳がこちらを見つめていた。


「あら、おかえりなさい」


 声をかけてから、全身の皮膚がささくれ立つようだった。「おはよう」のほうが正しい。「おかえりなさい」は絶対に正しくない。そのことだけは、はっきりしていた。それは、この家に「帰ってくる誰か」がいた頃の言葉だ。


「……ここは?」


 ほとんど声にもならない、吐息のようなささやきで男は言った。


「ウィンストンの山奥。川で倒れているのを見つけたの」


 男は黙ったまま天井を見つめ、頭を動かして部屋を見回した。調度品、ハーブが吊るされた梁、暖炉。ひとつひとつを値踏みするように、すうっと目を細めている。自慢できるような品はひとつも置いていないから、きっと安い値をつけるのだろう。


 それを黙って見守ってから、枕元の水差しからコップに水を注ぎ、差し出した。


 男は途中むせそうになりながらも、一口、また一口と飲み続けた。


「そんなに慌てなくても大丈夫だよ」


「すまない」


 コップを戻すと、諦めとも安堵ともつかない表情で男は笑った。


「……そうか。俺はまだ……生きているのか」


 ルディアナは答えず、男を見つめた。距離はあるが、敵意は感じなかった。それだけは確かだった。


 ボウルにスープを注ぎ、肉を器に移すと、触れただけで崩れていった。細切れになった肉や油でどす黒く濁ったスープは、とても美味しそうには見えなかった。


 身なりや顔立ちからして、高貴な身分なのだろう。見知らぬ土地で目を覚まし、最初に口にするのがこんなものでいいのだろうか。かといって、王宮で出るようなコース料理はここにはない。


 野花が宮廷の薔薇に差し出されるような心地で、器を掲げた。


「スープ作ったんだけど、飲める?」


 男は答えなかった。器を見て、ルディアナの顔を見て、また器に戻る。


 道ばたの雑草から差し出されたものなど、口にできるはずがない。そう思っているのだろうか。


「美味しくないかもしれないけど」


 冗談めかして言った。


 雑草の煮汁でも飲む覚悟ができたのか、男が答えた。


「ああ、頂く。すまないが、起こしてくれないだろうか」


 トレイを床に置き、男の背中に手を添える。想像していたよりもずっと温かい体が、手のひらを押し返してきた。


 その重みを腕に受け止めながら壁へ預けさせ、背中と板壁のあいだに枕を押し込む。こうして人に触れるのは、いったい何年ぶりだろう。


 スプーンですくったスープを唇に運ぶと、男は抵抗もせず飲み込んだ。最後の一口まで、男は一度も手を止めなかった。


 重湯やゼリーではなく、このジビエスープを作って良かった。よほど空腹だったのだ。


「礼を言う。おかげで、意識がはっきりしてきた」


 ルディアナは頷いた。


「もう一度、包帯を巻き直すね」


 断りもせず包帯に手をかけ、布を解いていくと、鍛えられた体が露わになった。筋肉の隆起、古い傷跡、切り傷に銃創。そのすべてが、戦場で得たものに違いない。


 薬棚からルナセージを取り出し、指先で葉を潰して傷口に塗った。


 長い年月、草いじりと機械いじりしかしてこなかったからか、何も話題が思い浮かばない。こんなとき、ウィンストンの町娘なら何を話すのだろうか。彼女たちは器量よしだし、楽しい会話のひとつやふたつ、造作もないかもしれない。


「それは何だ?」


 男が尋ねた。


「ルナセージ。抗菌作用のある薬で、私が庭先で育ててるの。雪が解けると……ってごめん」


「君は医者なのか?」


「え……私が医者に見えるの?」


 答えながら包帯を巻いていくあいだ、結局、聞き返すことはなく、麻布を巻く音だけが聞こえていた。


「……ヒース」


 ルディアナは手を止めず、包帯を巻き続けた。


「しがない魔法使いだ」


 魔法使いという一言に、ルディアナの手が止まった。アルベレオ王国に魔法の使い手はおらず、その呼び名はソルディア帝国の人間を意味する。


 双頭の鷲の紋章に、魔法使い。やはりソルディア帝国の軍人なのだ。


 でも、今さら警戒する理由もない。自分は死ねないのだから。


「……ルディアナ」


 男に名前だけを伝え、それ以上は言わなかった。


「包帯巻くの上手だな」


「うん、ひとりで生活してるとよく怪我をするから。普段はあまり気にならないけど、治らない傷とかもたまにあるから」


「そうなのか」


 包帯を巻き終え、結び目を確認すると、ヒースがこちらを見ていた。何か訊きたげな表情が、沈黙の重さを少しだけ和らげていた。


「ここは? 雪が降ってるようだが、珍しいな。ウェルヴェアあたりだろうか?」


 どう伝えればいいのだろう。嘘はいくらでも言えるが、これからのことを考えると、正直に話すしかなかった。


「……アルベレオ王国北部」


 予想していた通り、ヒースは動揺を隠しきれない顔になった。


「ア、アルベレオ王国だと!?」


 彼が驚くのも無理はない。なのに、どこか落ち着いている自分がいた。


「やっぱり、あなた、ソルディアの人なのね」


 ヒースは無理に動こうとして、傷が響いたのか、眉間に皺が寄る。


「ちっ、うまく身体が動かせない。俺をどうするつもりだ。どうして助けたんだ!?」


 食いしばった歯の隙間から、神話の火竜が最期の炎を吐くような声で言った。けが人にできることなど限られている。


 それでも、手負いの獣は追い込まれると何をするかわからない。この家で渓谷の二の舞になるのはごめんだった。


「大丈夫。国がどうとか、今は関係ない。あなたの傷を治すことが、私の優先事項」


 けが人を安心させたいとたぐり寄せた言葉だったが、彼はまだ疑いを捨てきれないような目をしていた。それは仕方のないことだった。


 ルディアナは立ち上がり、薬棚にハーブを戻した。背を向けたまま、彼に告げる。


「雪が降り始めたから、当分は降りられない。だから……その……ゆっくりしていって」


 人と話すこと自体に不慣れになっているのに、今度は正しい言葉を選べた気がした。


「本当に何もしないのか? 俺は敵国の人間だぞ」


「うん……だけど、乱暴はしないでね。痛いのはいやだから」


 ヒースは肩透かしを食ったような顔でルディアナを見た。


「本来なら、こんな傷はすぐに塞がるはずなんだが」


 急に話題を変えたことに気づいたが、気づかないふりをした。


「魔法使いは自己治癒もできるの?」


「ああ。でも、今は……」


 力を使い果たしたのだろう。プライマルへのアクセスには生命力が必要だ。瀕死の状態では無理もない。


 暖炉に薪をくべると火が大きくなり、部屋に温もりが広がる。こうしていると、まるで普通の暮らしのようだった。


「取り乱してすまなかった。それと……スープを恵んでくれてありがとう。美味しかったよ」


「えっ? あ……うん……えっと……どういたしまして?」


 誰かに「ありがとう」と言われる日が来るとは思っていなかった。それでも口にした「どういたしまして」は、少しぎこちなかった。


 ルディアナは火かき棒で暖炉の中を整えながら訊いた。


「そういえば……どうして、こんな山奥に?」


 ヒースが目を伏せ、やがて語り始めた声は、一段とか細く聞こえた。


「辺境伯としてアルベレオと戦っていたんだが……仲間に裏切られ、致命傷を負った……」


「貴族なの?」


「ああ。名ばかりの貴族だ。屋敷にいることはほとんどない」


「それでどうしてこんなところに? 国境は王都を挟んだ向こう側だし」


 不思議だった。アルベレオの貴族ですら近づかないこの僻地に、敵国の人間がどうやって辿り着いたのだろう。


「死体の近くに転がっていたスクロールをイチかバチかで使ったら、このざまだ」


 ヒースは不甲斐ないと言いたげな様子だった。


「エドワード……と言っていたけど」


「聞いていたのか」


 ヒースが顔をしかめた。


「うなされていたから、聞いちゃった」


「そうか」


 ヒースはため息をつきながら、うなだれた。信頼していた仲間に背後から矢を放たれる。やっぱり、同じ痛みを知っている人間だった。


 自分もまた、軍に技術を奪われ、信じていた国に見捨てられた。あのとき抑え込んだ叫びが、まざまざとよみがえった。


 暖炉を整え、煤のついた指先をヒースの頬に伸ばすと、彼は動きを止めた。こうして誰かに触れられることなど、あまりなかったのかもしれない。


 ルディアナは気づかないふりをして、手を離した。


「まだ熱があるから、無理はしないで」


 ヒースの肩を優しく押し、寝るように促した。布団をかけ直し、ロッキングチェアに腰をおろす。彼はもう目を閉じていた。


 その寝顔を見つめていると、怖さと嬉しさが胸の中で押し合っていた。怖さは、また人と関わって、傷つくこと。嬉しさは、会話ができたこと。


 怖さのほうが勝ったのかもしれない。でも、それでも、嬉しさは消えなかった。それはこの家に誰かがいて、自分がまだ人でいられるからだ。

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