第2話:リメラ
雪明かりだけが窓を青く染めていた。
傷口に固着したさび色のハーブへ、水を含ませた布を当てながら、慎重に剥がしていく。代わりに乾燥させたルナセージの葉をあてがって、再び白い包帯を巻き直した。
時折、男から苦しそうな呼吸が聞こえる。
何か他にできることはないかと、薬棚を開ける。
あるのは、指で数えられるほどのルナセージと、瓶の底に残ったわずかなフロストミントの粉末だけ。
こんなに必要になるのなら、今年はもう少し残しておくべきだった。商人が気に入ってくれているから、つい大量に売り払ってしまった。
心許ないハーブたちを見つめ、縁を掴んだ指に力を込める。もう、この男の生命力に賭けるしかなかった。
「どうか、死なないでね」
声にならない祈りは梁が軋む音にかき消された。過去に救えなかった人々の代わりに、せめてこの人だけは助けたい。
男の傍らで、壁に背を預けたまま床に崩れると、疲労が全身に沈み込んできた。体が言うことを聞かない。抗おうとしても瞼を開けていられず、意識が途切れていく。
皮膚の感覚が鈍くなると、目の前に百十年前のアトリエが立ち上がった。不治の病で苦しむ人を救いたいと願いながら図面を引いている自分がいた。
リメラが完成した日、共に作り上げた技術部のみんなと抱き合って喜んだ。普段は憎まれ口ばかりの貴族たちでさえ、その日は賛辞を惜しまなかった。それがすべての始まりだとも知らずに。
その功績を、軍服の男たちが持ち去っていく。会議室で上がった反対の声は、戦時という濁流に飲み込まれた。
ひとりの命が金属の体となり、ベルトコンベアを流れている。止めようと声を上げても、届かなかった。
「これは、ルディアナが望んだものではない」
誰かがそう叫んだ声が、夢の中でこだまする。
次に見えたのは渓谷での大規模戦闘だった。ソルディア帝国の魔法が日夜降り注ぎ、追い詰められたアルベレオの軍は勝利を焦った。数百人分のリメラを一度に起動させると、プライマルへの接続が一斉に開いた。
あらゆる対価の中で最も重い命そのものを燃料にエネルギーを引き出そうとしたが、それが暴走し、聖なる炎となった。その炎は、国境要塞地帯にいた両国の兵士たちを焼き尽くしていく。
悲鳴。爆発。崩壊。
気づけばすべてが終わっていた。視界は赤く染まり、数え切れないほどの人が塵となった。
その塵は彼女から死を奪い、代わりに「永遠に贖罪せよ」という言葉だけを授けた。
それから、北方の山奥へ逃げ、誰とも話さない日々が続いた。機械をいじり、ハーブを育て、だらだらと時間を過ごした。憎悪と、よみがえることのできない愛が、影となり忍び寄り、感情が摩耗していった。
逃げても逃げても、過去は呪いのように蝕んでいく。もう蝕むものもほとんど残っていないのに。
「エドワード……」
声が聞こえ、目を開けた。
「エドワード……なぜだ……なぜ裏切ったんだ」
額には汗が浮かび、男はうわごとを繰り返している。熱が上がっているのだろう。何かに縋るように、手が宙を掻いていた。
身を起こそうとした瞬間、手首に熱い圧迫感が走った。熱に浮かされているとは思えない力で、引き寄せられそうになる。
太くて温かい指が手首に食い込み、その温もりが肌を伝ってくる。この人も誰かに裏切られたのだろうか。まだ言葉を交わしてもいないのに、同じ痛みを知っている気がした。
暴れることなく、もう片方の手で男の頬を撫でた。
「大丈夫だよ」
彼には届いていない囁きだとわかっていながら、それでも言わずにはいられなかった。
腕をそっと引き抜くと、手首に指の跡が残っていた。憎しみを込めた跡なのか、助けを乞う跡なのか、今はまだ知る由もない。
布で額の汗を拭い、水に浸してから唇にあてると、ひび割れた口元が染み出す水を求めて動いた。ハーブを煎じた湯も同じ方法で与えた。
何度か繰り返していると、男の呼吸が落ち着いてきた。
「ひとまず、大丈夫そうだね」
暖炉の近くに戻り、ロッキングチェアに腰を下ろすと、視界がゆらゆらと揺れはじめた。そのまま、永遠にも感じられる刹那に身を委ねた。
しばらく眠り、まだ頭がはっきりしないうちに、弛緩しきっていた腕に力を入れ直した。外の景色に目を向けると、とうに昼を過ぎていた。
粉のような雪が緩やかに、絶え間なく空からおりてくる。その白い粒たちは山々の稜線をかき消していた。
男は山を下りる術を失い、自分はこの男と冬を越すことになった。
だんだん意識が戻ってくると、汗と埃の匂いがした。男を助けてからずっと看病に追われ、昨日から入浴もしていなかった。
そのまま浴室に向かい、服を脱ぎ、鏡の前に立つ。映る裸身はずっと変わらない。それは永遠に生きる証でもあり、永遠に死ねない証でもあった。
中身だけが擦り切れていき、何も思い出せない虚無だけが広がる。
シャワーを浴びて浴槽に体を沈めると、ふっと息を吐いた。縁に頭を預け、窓を見上げる。雪雲の切れ間から差し込む光が、夕暮れの色を帯びていた。
浴槽から上がり体を拭き、髪を拭い、ドライヤーのスイッチを入れる。温風を当てながら、もう片方の手で梳かしていく。
何気なく鏡に向かい、指先で口角を持ち上げてみた。手を下ろすと、映る自分が戸惑う顔で見返してくる。
「……どうやって、笑うんだっけ」
疑問を残したまま浴室をあとにし、部屋へ戻ると、男はまだ眠っていた。
スープを作ろう。料理からいい匂いがしてくれば、もしかしたら目を覚ますかもしれない。それが期待に過ぎなくても、何かしないではいられなかった。
保存食の肉と乾燥した野菜を鍋に入れ、弱火にかける。調味料で味を調えると、ジビエ特有の香りが立ち上ってくる。
かき混ぜながら火加減を調整し、男の額を拭ってはまた戻る。そんなことを繰り返しているうちに、雪雲の隙間から覗く空が、茜色から紫へと移ろっている。
食器棚を開け、器をふたつ並べようとして、指が止まった。木のボウルがひとつしかない。それは時間の感覚がなくなるくらい誰かを待っていなかった証拠だった。
だけど、今はふたりいる。
木のボウルをひとつだけトレイに乗せ、ロッキングチェアに戻る。素足で床を蹴ると、きぃ、きぃ、と椅子が揺れた。
敵国の兵士と、この雪山で、どうやって過ごせばいいのだろう。白い踵が浮いては、また床に触れる。
答えは出ないまま、目を閉じた。
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