雪山の技術者、敵国の魔法使いを拾いました

水越ゆき

第1話:救出

 それはあまりにも大きな魚だった。


 手に食い込む網の重みは、予期していた獲物のものではなかった。秋の終わり、水嵩の減った川の流れは穏やかだが、仕掛けは泥底に根を張ったかのように動かない。ルディアナは足元の砂利を踏みしめ、使い古した綱を握り直した。流木か、あるいは上流から転がってきた岩だろうか。少なくとも、夏の魚であるコウギョの跳ねる感触ではないし、霜鮭が遡上するにはまだ時期が早すぎる。


 ルディアナは綱を手繰りながら、網の先に見える膨らみを見つめた。両手に力を込めて引き上げると、川面が大きく波立った。軍服だと気づいたのは、金糸の装飾が水面に揺らめいたときだった。


 大柄な男が川の流れに身を任せ、顔の半分が水に浸かっていた。その軍服は血に染まり、胸部と太腿に矢が深々と突き刺さっている。


「生きてるの?」


 男を浅瀬まで引き上げ、手袋を脱ぐ暇もなく首筋に指を当てると、かすかな鼓動が伝わってきた。唇は青味を帯びた紫になり、まぶたは固く閉じられている。整った顔立ちだが、今の自分にはそれ以上の意味を持たなかった。


 まだ生きている。


 不意に、渓谷を埋め尽くした光景がよみがえる。折り重なった屍、煙、悲鳴を上げることさえできなかった者たち。また誰かの命を左右するのかと思うと、綱を握るもう片方の手に力が入った。あの日から関わることを避け続けて、もうすぐ百年になる。


 目の前の男を助ければ後戻りはできない。この綱を離すこともできたが、気づけば膝が濡れた草を踏んでいた。浅瀬に踏み込み、男の傍らにしゃがみ込む。いつの間に動いたのか、自分でもわからなかった。


 空を見上げると、雲が厚くなり、鈍色へ変わっていた。ひとひら、雪が舞い落ちる。またひとひら。根雪がつけば、雪解けまで山を降りられない。


 男を川岸の倒木に寄りかからせ、家へ向かって走り出す。黒いローブの裾が水に濡れ、足に絡みつく。息を吸っても肺に届かない。それでも足は止まらなかった。


 狩猟用のそりを引きずって川へ戻ると、雪は粉雪から牡丹雪に変わっていた。慌てて男をそりに乗せようとするが、体格差がありすぎて、何度も滑り落ちそうになった。ようやく固定できた時には、肩が痛んでいた。


 紐を肩にかけ、引きずるように歩き出す。普段よりも道のりが果てしなく感じ、視界が霞んでいく。顔に張り付いた雪を払うために、一度でもこの紐を手放せば、二度と握り直すことはできないと思った。追い打ちをかけるように、雪が吹雪に変わり、足跡がすぐに消えていく。


 この人を死なせてはいけないという思いだけが、ルディアナの足を前に進めた。


 男を床へ引きずり込み、扉を背にしてようやく息をつく。濡れたローブを脱ぎ捨てると、ルディアナはためらわず暖炉へ薪をくべた。炎が育つのを見届けることなく、その手はすでに次の行動へ移っている。取り出したのは、一本のはさみだった。


 軍服に刃を入れ、傷口を避けて裂いていく。迷いなく動いていた手が、胸元の金色の刺繍を見て止まった。双頭の鷲、ソルディア帝国の紋章だ。あの災害で失われた命、その半分はこの紋章を掲げる国の民だった。


「それでも……助けないと」


 世界は思想で回らない。人は生活で死ぬし、生きることもできる。もしここで自分が見捨ててしまったら、誰が助けられると言うのだ。


 ルディアナは再びはさみを動かし始める。矢じりに指が触れたところで、返しの硬さが伝わってきた。無理に抜けば肉を大きく裂く。一度、傷口をハーブの煎じ液で洗い、ナイフを火にかざして刃先が赤く染まるのを待った。


「……ごめんなさい」


 意識のない男に謝罪の言葉を述べたあと、歯を食いしばる。赤銅色のナイフが肉に食い込む瞬間、男の体が反射的に動いた。大量の血が溢れ、手を赤く染める。動脈を切ってしまったかと焦ったが、徐々に血の勢いは落ち着いていった。


 慎重に矢じりの返しを避けながら引き抜き、躊躇いを振り切って再び刃を傷口へ向けた。太腿の矢にも同じ処置を施す。


 傷口をハーブで覆い、包帯を巻く。すべての手当てが終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。吹雪は、家に着いたときよりさらに激しさを増している。ウィンストンの冬が始まったのだ。


 いつもなら当たり前に迎える季節が、今回ばかりはもう少しだけ、遅れてくれれば、なんと良かったことか。それに、この男も不運なものだ。前世でどれだけの罪を犯せば、敵国の、こんな山奥の川へ流されるのだろうか。


 そんなことを考えながら、ルディアナは処置を終え、保存食の棚を開けた。塩漬けの肉、干し野菜、燻製の川魚が並んでいる。ひとりで過ごすには十分な量だった。ふたりでは、全く足りない。普段通りなら、次に商人が来るのは三ヶ月先だ。


 その中身を見つめ、視線を男へ移し、また棚へ戻す。毛布をかけ、暖炉に薪を足した。


 炎の色が、穏やかな寝息を立てる男の顔を橙色に染めている。この男が目を覚ましたら何を言うのだろうと考えた。礼を言うのか、それとも敵国の人間だと知って刃を向けてくるのか。ただ、その声を聞いてみたいと思った自分に、少し驚いた。


 窓の向こうで、雪がしんしんと降り積もっていく。早く雪が解けてほしいと願っていた。この男も、同じ思いなのだろうか。

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