第四話

 ──進軍を確認。


 当機は、そう認識した。


 視覚情報ではない。魔導計測値の変化による判断だ。周辺一帯の魔素濃度が、緩やかに、しかし確実に上昇している。敵陣はすでに、この施設全域を射程に収めている。


 物理的距離は、意味を持たない。


 環境は、すでに汚染されている。


 だが、後方施設は平常だった。


 負傷兵は寝台に横たわり、事務要員は書類を運び、通信兵は雑談を交わしている。空気はむしろ軽い。深く呼吸すると、頭が冴えるような錯覚すら生じる。


 魔素濃度の上昇は、初期段階では多幸感を伴う。


 人体はそれを異常として認識しない。


 当機の演算では、この状態はすでに危険域に入っている。時間経過とともに判断力は低下し、やがて呼吸器系が破綻する。退避が開始されたとしても、成功率は著しく低い。


 この施設は、死地である。


 当機は歩行を開始した。


 目的地は、指揮官の位置。


 指揮官は簡易司令室にいた。地図を前に立ち、通信端末を握りしめている。彼の呼吸は浅く、動作にわずかな遅延が生じている。本人は気づいていない。


 魔素中毒の初期症状だ。


 当機は彼の傍に立つ。


 声はかけない。説明もしない。必要な工程は、すでに決定している。


 当機は一歩距離を詰め、指揮官の顔を固定する。


 そして、口付けを行った。


 接触は短い。


 当機の口腔部に残存する魔素処理機構が作動し、外気を遮断する。指揮官の呼吸は一時的に当機を介する形となり、体内への魔素流入が停止する。


 数秒後、指揮官の呼吸が整った。


「……?」


 彼は小さく息を吸い、目を見開く。


 酸素が戻ったわけではない。

 正常な環境に戻ったわけでもない。


 ただ、異常が一時的に除去されただけだ。


 指揮官は何も言わない。


 だが、当機を見る視線が変わった。


 戸惑い。

 理解不能。

 そして、直感的な違和感。


 ――何かがおかしい。


 その認識だけが、彼の中に残る。


 当機は彼から離れ、一歩下がる。


 処置は完了している。効果は短時間だが、意思決定に必要な最低限の時間は確保できる。


 当機は、次の演算へ移行する。


 魔素濃度:上昇継続。

 施設影響範囲:全域。

 人体適応:不可。


 殲滅処理の前提条件は、すでに満たされている。


 だが、要請はまだ発生していない。


 当機は、静かに待機状態へ戻った。




─────────────────────

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る