第三話
当機は現在、後方施設に在籍している。
ここは前線を離れた者たちの場所だ。負傷により戦闘不能となった兵、古傷を抱えたまま配置換えされた者、あるいは最初から戦場に戻る予定のない人員。いずれも、今は生きている。
彼らはこの場所を「安全」と呼ぶ。
前線から十分に距離があり、防衛線も残っている。補給は細いながら維持され、砲声も遠い。戦場であった痕跡はあるが、現在進行形の死は存在しない。
そのため、空気は緩んでいる。
当機は、その中にいる。
高官の娘。
サキュバスの血を引く者。
軍籍はあるが、戦闘任務には就かない存在。
その認識は、ここでは揺らがない。
兵士たちは当機を見ても緊張しない。視線は向くが、警戒ではない。噂話の延長にある距離感だ。彼らにとって当機は、役割を持たない人員であり、同時に、この場所が戦場ではない証明でもある。
――デシェア嬢がいるのだから。
当機は作業机の傍に立ち、書類の運搬や簡易的な事務補助を行っている。業務として割り当てられている内容は、それだけだ。
会話は少ない。
当機から話しかけることはない。
話しかけられることも、ほとんどない。
それでも、声は聞こえる。
「……サキュバスを後方に置く意味ってさ」
「まあ、高官の娘だしな」
「指揮官の慰安目的って噂もあるぞ」
小声で、笑い混じりに。
当機は、それらを環境音として処理する。内容は当機の行動に影響しない。修正する必要もない。誤認であっても、戦況に寄与しない限り、放置が最適解だ。
当機の演算では、この施設が安全である確率は低下している。
前線は後退傾向にあり、補給線は不安定だ。防衛戦力は不足しており、ここが次の集積地点になる可能性が高い。時間経過に伴い、この場所は高確率で死地へ移行する。
想定される未来は一つだ。
侵入。
混乱。
殲滅。
当機はすでに、殲滅処理の効率化を演算している。動線、密集度、遮蔽物。初動で処理すべき箇所と、巻き込みを前提とした最短手順。生存者を想定しない場合の最適解。
誰にも、それを告げる必要はない。
今は、まだ要請は発生していない。
そのとき、背後から声がかかる。
「なあ」
振り返ると、包帯を巻いた兵士が一人、苦笑いを浮かべていた。
「デシェア嬢に給仕でもしてもらえりゃ、
もうちょっとやる気出るんだけどな」
軽口だ。
悪意はない。
この場所が安全だと信じている者の声音。
当機は、その言葉を否定しない。肯定もしない。必要な返答は存在しない。
ただ、微笑む。
――サキュバスの笑み。
それ以上でも、以下でもない。
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