第11話 図書室の観察者
放課後の図書室は、特有の静寂と古い紙の匂いに満ちていた。
僕は一番奥の閲覧席で、分厚い洋書を広げていた。
『Advanced Neuroscience(先端神経科学)』。
高校の図書室にあるような本ではない。司書の先生に頼み込んで、大学の図書館から取り寄せてもらった専門書だ。
(……やはり、既存の医学では説明がつかないか)
ページをめくる手つきは速い。
今の僕は、一度見た情報を映像として脳に焼き付けることができる。数百ページの専門書も、スキャンするように数十分で読破できるのだ。
だが、いくら知識を吸収しても、僕の身体に起きている現象――「他者への生体権限(アドミニストレータ)の掌握」についての記述は見つからなかった。
「――相馬くん。ページをめくる手が止まっているわよ」
不意に、頭上から声が降ってきた。
顔を上げると、カウンターに座っているはずの図書委員、四宮怜が立っていた。 手には返却された本の山を抱えている。
「……何か用かな、四宮さん」
「別に。ただ、あなたが何をそんなに必死に読んでいるのか気になっただけ」
彼女は僕の手元の本を覗き込み、形の良い眉をひそめた。
「神経科学? 受験には出ないわよ、そんなマニアックな分野」
「趣味だよ。将来、役に立つかもしれないしね」
「ふうん……。医学部志望だっけ、あなた」
四宮は抱えていた本を机にドンと置き、僕の隣の席に座った。
距離が近い。
彼女からは、消毒液のような、清潔だがどこか冷たい匂いがした。
「奇遇ね。私の父も医者なのよ。……もっとも、生きている患者は診ないけれど」 「生きている患者を診ない?」
「監察医よ。警察からの依頼で、死体解剖をするのが仕事」
僕は表情筋がピクリと反応するのを、意志の力で抑え込んだ。
監察医。
つまり、僕が「治療」した黒竜会の連中や、腕を失った剛田たちの診断書を書いている人間である可能性が高い。
堂島刑事と繋がっている「医学的見地からの捜査」の正体は、彼女の父親か。
「へぇ、大変そうな仕事だね」
「ええ。最近は特に忙しいみたい。『人間業じゃない遺体』が増えているせいで、毎日頭を抱えてるわ」
四宮は僕の目をじっと見つめながら言った。
試されている。
彼女はどこまで知っている? いや、確証はないはずだ。ただの知的好奇心と、カマをかけているだけ。
「怖い話だね。この街も物騒になったもんだ」
「本当にね。……あら」
四宮が本の整理を再開しようとした時だった。
一冊のハードカバーの表紙が裂けており、そこから飛び出していた鋭利なプラスチック片が、彼女の指先を切り裂いた。
「っ……」
小さな呻き声。
人差し指から、鮮血がぷくりと溢れ出す。結構深い。
「四宮さん、大丈夫?」
「平気よ、これくらい。……ティッシュ持ってる?」
血はポタポタと机に滴り落ちようとしている。
本が汚れる。
僕は反射的に――そう、あまりにも無意識に、彼女の手首を掴んでいた。
「動かないで。傷口が開く」
――生体操作(バイオ・コントロール)。
――対象、末梢血管。血管収縮。血小板凝集促進。
ほんの一瞬。
まばたきするほどの時間、僕は能力を行使した。
完全に傷を消せば怪しまれる。だから、あくまで「止血」のみ。出血を物理的に止め、傷口をフィブリン(血液凝固因子)で糊付けしたのだ。
「……え?」
四宮が目を見開いた。
指先から溢れていた血が、ピタリと止まっている。
傷口はまだ赤い線として残っているが、まるで数十分圧迫した後のように塞がっていた。
「あ、圧迫止血のツボを押さえたんだ。ここを強く押すと、一時的に血流が弱まるから」
僕は慌てて手を離し、適当な嘘をついた。
そんなツボは存在しない。だが、素人相手なら誤魔化せるはずだ。
しかし。
四宮は自分の指と、僕の顔を交互に見比べた。
その瞳に宿っているのは、困惑ではない。
獲物を見つけた狩人のような、鋭い輝きだった。
「……嘘ね」
彼女は静かに断言した。
「父の仕事を手伝って、私も何度か人体を見てきたわ。こんな風に、一瞬で血液が凝固するなんてありえない。止血帯(ターニケット)を使っても、こうはならないわ」 「偶然だよ。君の血小板が優秀だったんじゃないかな」
「はぐらかさないで。……あなた、先週の体育の時もそうだった」
四宮が僕の手首を掴み返す。
華奢な手だが、力は強い。
「持久走の後、クラス全員が息を切らしていたのに、あなただけ心拍数が平常時と同じだった。汗もかいていなかった。まるで、体の機能をスイッチ一つで切り替えているみたいに」
「……買い被りすぎだよ。ただ体力を温存してただけだ」
「いいえ。あなたは隠してる」
彼女は顔を近づけ、囁くように言った。
「あなた、人間じゃないの?」
図書室の空気が凍りついたように感じた。
僕は彼女の手を振りほどくべきか、それとも――ここで彼女の記憶中枢を「編集」して、この会話をなかったことにすべきか迷った。
今なら誰も見ていない。数秒あれば、彼女を廃人にすることも、記憶喪失にすることもできる。
だが。
彼女の目には、恐怖がなかった。
あるのは純粋な、狂気的なまでの「知りたい」という渇望。
それは、僕が人体に対して抱いている感情と、どこか似ていた。
「……面白い冗談だね」
僕は彼女の手をそっと外し、立ち上がった。
記憶消去は保留だ。この鋭すぎる観察者をどう扱うか、もう少し様子を見る必要がある。
「保健室に行った方がいいよ、四宮さん。傷口から雑菌が入るといけない」
「……逃げるの?」
「勉強の邪魔をされたくないだけさ」
僕は本を閉じ、逃げるように図書室を出た。
背中に、彼女の熱っぽい視線が突き刺さっているのを感じながら。
廊下に出ると、僕は大きく息を吐いた。
心拍数が上がっている。
ヤクザの事務所に乗り込んだ時でさえ冷静だった僕が、たかが同級生の女子一人に動揺させられている。
(……四宮怜。危険因子(リスク)だ)
だが同時に、僕は微かな高揚感も覚えていた。
この孤独な捕食者の頂に、理解しうる知性がもう一つ存在するかもしれないという可能性に。
彼女は敵か、それとも――。
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