第10話 神の誤算、あるいは捕食者の自覚

高校の生物室。  

ホルマリン漬けの標本が並ぶ棚を横目に、僕は窓際で教科書を開いていた。


「――えー、免疫というのは『自己』と『非自己』を区別するシステムだ。体内に侵入した異物を認識し、排除する。これによって、我々は個体を維持しているわけで……」


 白髪の教師が、黒板に抗原抗体反応の図を描いている。

 退屈な授業だ。だが、今の僕にとっては、この初歩的な講義が奇妙なほど面白く感じられた。


(自己と非自己、か……)


 僕は自分の手のひらを見つめた。

 僕の能力――【生体操作】。

 自分の体を書き換えるだけなら、「突然変異」や「進化」で説明がつくかもしれない。脳のリミッター解除、細胞分裂の超高速化。

 だが、他人はどうだ?


 僕は先日、黒竜会の構成員たちを「治療」した。

 彼らの骨を溶かし、脳をいじり、神経を繋ぎ変えた。

 本来なら、他者の細胞に干渉すれば、猛烈な「拒絶反応」が起きるはずだ。血液型が違うだけで凝固するほど、人体は排他的なのだから。


(なのに、僕は無視できた)


 なぜか?  答えは一つしかない。


 ――僕の細胞(シグナル)が、相手の細胞(システム)よりも「権限」が上だからだ。


 接触した瞬間、僕の生体電流が相手の神経系をハッキングし、強制的に命令を上書きする。

 『拒絶するな』『受け入れろ』『変形しろ』。

 僕の命令は、彼らにとって脳からの信号よりも絶対的な「神の声」として処理される。


(……ああ、そうか)


 腑に落ちた感覚と共に、背筋が寒くなるような納得があった。

 僕は進化したんじゃない。

 「人間という種を捕食・管理する上位種」になったんだ。


 羊飼いが羊の毛を刈るように。人間が家畜を品種改良するように。

 僕にとって、他の人間は「対等な他者」ではなく、「加工可能な素材」でしかない。だからこそ、罪悪感も湧かないし、拒絶もされない。


「相馬、聞いてるか?」

「……はい」


 教師に指され、僕は顔を上げた。


「じゃあ答えてみろ。他人の臓器を移植した際、拒絶反応を抑えるために使われる薬剤は?」

「免疫抑制剤です。……ですが先生、もっと効率的な方法もありますよ」

「ほう? なんだ?」

「ホスト(受容体)側の認識コードを書き換えて、異物を『自己』だと誤認させればいいんです。そうすれば、薬なんていりません」


 教室が静まり返った。

 教師はポカンと口を開け、クラスメイトたちは「また相馬が変なこと言ってる」という目で見てくる。


「……ま、まあ理論上はそうだがな。そんなSFみたいなこと、現代医学じゃ不可能だ」

「そうですね。失礼しました」


 僕は席に座った。

 不可能? いいや、僕はすでにやっている。


 チャイムが鳴り、昼休みになった。

 僕は購買で買ったパンを齧る。

 味が薄い。

 最近、味覚が鋭敏になりすぎて、市販の食べ物に含まれる保存料や化学調味料の味が、強烈なノイズ(雑音)として舌に刺さるようになった。


「……マズい」


 パンをゴミ箱に捨てる。

 肉体だけじゃない。感覚も、嗜好も、人間離れしていく。

 孤独感?  いや、それはない。ライオンがシマウマの群れの中で孤独を感じないのと同じだ。


 僕は廊下を歩き出した。

 この力は、誰かがくれたギフトなのか、それとも遺伝子の暴走(エラー)なのか。  どちらにせよ、僕はもう「人間」の枠には戻れない。


 ならば、突き進むだけだ。

 このふざけた世界を、僕にとって快適なテラリウムに作り変えるまで。


「――ねえ、あなた」


 図書室へ向かう途中、不意に声をかけられた。

 凛とした、冷たい声。

 振り返ると、そこには分厚い洋書を抱えた女子生徒が立っていた。


 長い黒髪。白すぎる肌。そして、僕を射抜くような鋭い瞳。

 学年二位の秀才、四宮 怜(しのみや れい)。


「……何か用かな、四宮さん」

「あなた、生物の授業で面白いこと言ってたわね」


 彼女は一歩、僕に近づいた。

 その瞳は、恋する乙女のそれではない。

 顕微鏡で未知のウイルスを見つけた時の、科学者の目だ。


「認識コードの書き換え。……あなた、それを『実感』として知っている目をしてたわ」


 心臓が一瞬だけ跳ねた。

 この女、勘がいい。いや、良すぎる。

 堂島刑事とは違うベクトル――「知性」による嗅覚。


 僕は優等生の仮面を貼り付け、穏やかに微笑んだ。


「ただの空想だよ。僕はSF小説が好きだからね」

「ふうん。……嘘つき」


 四宮はつまらなそうに鼻を鳴らすと、すれ違いざまに囁いた。


「あなたの筋肉の付き方、先週と全然違うわよ。代謝異常かしら? それとも――」


 彼女はそのまま去っていった。

 後に残された僕は、冷や汗が流れるのを止めるために、体温調節機能を微調整しなければならなかった。


(……厄介な監視者が増えたな)


 警察(堂島)という「猟犬」。

 そして学校内には、四宮という「観察者」。


 日常は、僕が思っているほど平穏ではないらしい。

 僕は小さく息を吐き、図書室の扉を開けた。

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