ソフィアからのメッセージ

 株式会社スプライト・ワークスの開発室は、青白い光の海に沈んでいた。


 深夜二時。ビルの他の階はとうに闇に溶けているというのに、十二階のこの一室だけが、まるで不夜城のように煌々と明かりを灯している。モニターが放つ冷たい光が、ジェイコブ・サリバンの疲れ切った顔を無機質に照らし出していた。


 彼は両手で頭を抱え、画面に映る暗号の羅列を睨みつけている。瞬きをするたびに視界がぼやけ、肩には鉛のような重さがのしかかっていた。


 机の上は戦場のような有様だった。銀色のスマート缶が十本以上も散乱し、そのうちのいくつかは横倒しになって、残った雫が机に茶色いシミを作っている。最後に飲んだコーヒーの味など、もはや覚えていない。ただ機械的に缶を開け、カフェインを喉に流し込み、また解析に戻る。その単調な繰り返しが、いつ始まったのかさえ定かではなかった。


 三週間前、一隻のメッセンジャー船が運んできた一つのデータパケット。差出人はソフィア・レイノルズ。会社の共同創業者であり、そしてジェイコブの恋人でもある彼女は、今、ロキの衛星サルバトリアで軍の任務に就いているはずだった。


 データは幾重にも暗号化されていた。軍の標準プロトコルではない。彼女独自の、複雑で、そしてどこか美しささえ感じさせるアルゴリズム。ジェイコブはこの三週間、一日三時間の仮眠以外はずっとこの部屋に籠もり、その解読だけを試みていた。


 肩の上で、小さな機械音が響いた。


 球体のキャラクター型AI端末――通称スプライト。ジェイコブが「ルーシー」と名付けたその相棒は、四つのプロペラを震わせながら不規則な唸り声を上げていた。通常より高い周波数の振動音は、明らかに過負荷状態を示している。


『ジェイコブ、あなたの脳波パターンが危険域に達しています』


 ルーシーのボディスクリーンが赤く点滅し、アラート音が執拗に鳴り続ける。


『休息を強く推奨します。このままでは――』


「うるさい、ルーシー」


 ジェイコブは苛立たしげに手を振った。血走った目は画面から離れることなく、震える指で新しいコマンドラインを打ち込んでいく。


「今は黙っててくれ」


 あと少し。あと少しで何かが掴めそうな気がする。ソフィアが命がけで送ってきたメッセージを、このまま終わらせるわけにはいかない。


 ジェイコブの指が止まった。


 画面を見つめながら、ゆっくりと椅子の背もたれに体を預ける。目を閉じると、瞼の裏に懐かしい光景が浮かび上がってきた。




 大学の研究室。窓の外は真っ暗で、室内は蛍光灯の白い光だけが二人を照らしていた。ホワイトボードには複雑な数式がびっしりと書き込まれ、机の上には冷め切ったコーヒーカップが二つ。


「これで完璧だね、ジェイク」


 ソフィアの声が記憶の中で響く。朝焼けが窓から差し込み始めた頃、彼女は誇らしげに笑いながら言った。


「私たちだけの暗号。これなら、誰にも解けない」


 二人で夜通し作り上げた、特別なアルゴリズム。それは単なる暗号ではなく、二人だけの秘密の言葉であり、いつか必要になった時のための約束だった。




 ジェイコブは目を開けた。震える指で、記憶の底から引きずり出したそのコードを入力し始める。最後の望みを賭けて、エンターキーを押した。


 画面が一瞬、真っ暗になった。


 そして――


 ピン。


 澄んだ確認音が静寂を破った。


「DECRYPTION SUCCESSFUL」の文字が鮮やかな緑色で画面に浮かび上がる。三週間の苦闘が、ついに報われた瞬間だった。


 複数のファイルが次々と展開されていく。その中から、映像ファイルと音声ファイルが自動的に再生を始めた。画面は激しいノイズに覆われ、砂嵐のような映像が流れ始める。


 砂嵐が一瞬途切れた。


 画面に現れたのは、ソフィアの顔だった。だが、それはジェイコブが知っている彼女ではなかった。いつも冷静で理知的だったその顔が、今は恐怖に歪んでいる。額には汗が浮かび、瞳は何かに怯えるように大きく見開かれていた。


 彼女の視線は画面の外、カメラの向こう側の何かを見つめている。その瞳に、青白い光が反射していた。不気味に脈動するその光源が何なのか、映像からは判別できない。


 カメラが激しく揺れ、再び砂嵐に飲み込まれる。


 音声トラックから、ノイズに埋もれた声が聞こえてきた。


「……ジェイク……」


 かすれた声が、ジェイコブの名を呼んでいる。途切れ途切れに、必死で何かを伝えようとするソフィアの声。


「『ハーベスター』……エリアス・カインの計画は……この座標に……」


 その瞬間、モニターの端にテキストウィンドウが開いた。


 数字の羅列が静かに表示される。座標データだった。サルバトリアのある地点を示す数値。


 ジェイコブは即座に行動を起こした。


 軍のデータベースにアクセスし、震える指でキーボードを叩く。最初の検索ワード「エリアス・カイン」。エンターキーを押すと、画面に冷たく「該当なし」の文字が表示された。


 次に「ハーベスター」と入力する。


 再び「該当なし」。


 最後の望みを託して、ソフィアが送ってきた座標データをサルバトリアの公式地図に入力する。


 マップが展開され、赤い点が一つ、画面上に表示された。ジェイコブは目を凝らして、その位置を確認する。


 そこには、何もなかった。


 建物のアイコンも、道路の線も、地形の起伏を示すデータさえ存在しない。完全な空白。まるで地図製作者が、その場所だけを意図的に避けたかのような不自然な空白地帯。


 サルバトリアの未踏査区域。記録されていない領域。


「ジェイク!」


 突然、ドアが勢いよく開いた。


 マックス・ベルグマンが立っていた。いつもの陽気な表情はどこにもない。顔は青ざめ、額には汗が浮かんでいる。手には軍の紋章が刻印された公式書類が握られていた。


「軍からの緊急派遣命令だ」


 マックスは息を切らしながら書類を突き出した。


「サルバトリアで反乱軍が決起した。軍は衛星サルバトリアを捨て、その惑星ロキへ撤退したらしい。スプライトシステムに大規模な障害が発生している。俺たちがメンテナンスに向かう必要がある」


 マックスは一瞬躊躇った後、ジェイコブの目を見ながら続けた。


「そして……ソフィアが反乱軍に拘束されている可能性が高い」


 最後の言葉が、重く部屋に響いた。ジェイコブの手が、無意識にデスクの端を掴む。関節が白くなるほど強く握りしめていた。


 ジェイコブは立ち上がった。


 モニターにはまだソフィアの恐怖に歪んだ顔が映っている。反乱軍に拘束された? だが、彼女はメッセージを送ってきた。しかも、二人だけの暗号で。


 もし本当に拘束されているなら、どうやってこのデータを送信できたのか。時系列が合わない。矛盾している。


 ジェイコブの思考が加速した。軍のデータベースにも存在しない「ハーベスター」と「エリアス・カイン」。地図にすら記載されていない謎の座標。これらの断片が、頭の中で一つの確信へと結びついていく。


 軍は何かを隠している。あるいは、軍さえ知らない脅威が、サルバトリアで起きているのだ。


 ジェイコブはマックスから派遣命令書を受け取った。軍の紋章が重々しく押されている。逆らうことはできない。


「……わかった。軍の要請を受けよう」


 書類を折りたたみ、ポケットにしまう。そしてデスクの引き出しを開け、予備のデータストレージを取り出した。解読したファイルを素早くコピーしていく。


「だが、マックス」


 ジェイコブは顔を上げ、マックスの目をまっすぐ見据えた。


「俺たちの本当の目的は、この座標にある真実を突き止めることだ。ソフィアが命を賭けて送ってきたメッセージ。『ハーベスター』が何なのか、エリアス・カインが何者なのか、必ず明らかにする」


 肩の上でルーシーが小さく振動した。まるで同意するかのように。


 三週間蓄積した疲労が、不思議と消えていくのを感じた。血走っていた目に、新たな決意の光が宿る。


 部屋を出ようとドアに向かいながら、ジェイコブは心の中で呟いた。


 サルバトリアへ――答えのある場所へ。ソフィアが待つ場所へ。そして、すべての謎が隠された、あの座標へ。

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