第3話彼は、何も知らない

 最初は、

 少し疲れているだけだと思った。


 講義が長かった。

 バイトも詰め込みすぎた。

 帰りの電車で立ったまま寝てしまうことも、

 最近は珍しくなかった。


 だから、

 駅前で視界が揺れた時も、

 気にしなかった。


「……あれ?」


 足元が、

 一瞬だけ浮いた気がした。


 次の瞬間、

 世界が裏返った。


 音が遠のき、

 色が抜けていく。


 誰かが名前を呼んだような気がしたが、

 それが自分のものかどうかも分からない。


 ――そして、暗転。


 次に目を覚ました時、

 天井が白かった。


 知らない匂い。

 規則的な電子音。


 病室だと理解するのに、

 少し時間がかかった。


「……あ」


 声を出そうとして、

 喉がひりついた。


 身体が、重い。


 手を動かそうとして、

 動かない。


(……何が、起きたんだ)


 記憶は、

 駅前で途切れている。


 転んだ覚えはない。

 ぶつかった覚えもない。


 ただ――

 何かに、触れられた感覚だけが、

 はっきりと残っていた。


 看護師が気づき、

 慌てて駆け寄ってくる。


「気がつきましたか?」


 声は優しい。

 だが、表情は少し硬い。


「……ここは?」


「病院です。

 突然、意識を失って倒れたそうですよ」


 突然。


 その言葉に、

 胸の奥がざわついた。


「原因は……?」


 看護師は、

 一瞬だけ言葉に詰まった。


「詳しいことは、

 まだ分かっていません」


 その言い方で、

 理解してしまう。


 ――異常だ。


 原因不明。

 理由不明。


 ただ、

 倒れたという結果だけが残っている。


 両親が来たのは、

 その日の夜だった。


 母は泣いていた。

 父は、泣いていないが、

 顔色が悪かった。


「ごめん……」


 何に対する謝罪か、

 自分でも分からない。


 バイトの入れすぎか。

 不摂生か。


 どれも、

 しっくりこない。


 夜。

 病室に一人になると、

 眠れなかった。


 目を閉じると、

 あの感覚が蘇る。


 世界が、

 ほんの一瞬だけ、

 別の何かに上書きされた感覚。


(……夢じゃ、ない)


 理由は分からない。

 だが、

 確信だけがあった。


 これは、

 事故じゃない。


 俺のせいでもない。


 誰かの選択の、結果だ。


 そう思った瞬間、

 胸が、ぎゅっと締め付けられた。


 怖い。


 だが、

 同時に――

 知りたいと思ってしまった。


 誰が。

 何を。

 どうして。


 その答えは、

 きっと教えられない。


 それでも、

 心の奥で、

 微かな声が響いた。


(……見ている人がいる)


 病室の天井を見つめながら、

 彼は知らず知らずのうちに、

 祈っていた。


 誰に向けた祈りか、

 分からないまま。


 その頃。


 同じ夜空の下で、

 一人の男が、

 その病室の“歪み”を見つめていた。


 彼は、

 まだ名前すら知らない。


 だが、

 自分が関わった人間だという事実だけは、

 否定できなかった。


 こうして、

 世界の調整は、

 確かに人の人生と交差していく

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