第2話 氷の女帝は機嫌が悪い
翌朝、俺は、洗面台の鏡の前で入念に「武装解除」を行っていた。
まず、寝癖などついていない髪をワックスでわざと乱し、前髪を目にかかるくらいまで下ろす。これで鋭い眼光を隠す。
次に、度の入っていない黒縁メガネを装着する。フレームが太く、野暮ったいデザインのものだ。
最後に、オーダーメイドのスーツ……ではなく、量販店で買った吊るしの安物スーツに袖を通す。サイズはあえてワンサイズ上。188センチ、95キロの筋肉の鎧を隠すには、これくらいダボッとしていないと体のラインが出てしまい、威圧感を与えてしまうからだ。
「よし」
鏡に映るのは、どこにでもいる冴えない、覇気のないサラリーマン。
これが、中堅商社・営業二課の主任補佐、橋本一郎の仮の姿だ。
『マン・オブ・スティール』のクラーク・ケントよろしく、俺はこの擬態に絶対の自信を持っている。
俺は深く息を吐き、背中を丸めて猫背になってから家を出た。
今日もまた、「氷の女帝」が支配する戦場への出勤だ。
「おはようございます」
「……ああ、橋本さん。おはよう」
営業二課のフロアに入ると、同僚たちは皆、死んだ魚のような目でPCに向かっていた。
空気は鉛のように重い。
その発生源は、フロアの最奥。課長席にある。
「高田。この契約書の条項、第3項と第8項でロジックが矛盾しているわ。リーガルチェックを通したの?」
「あ、いえ、前回の契約書の雛形をそのまま……」
「前回の取引先とは資本金もリスクヘッジの範囲も違うでしょう。思考停止しないで。やり直し」
「は、はいっ! 申し訳ありません!」
朝一番から、氷の女帝――李雪課長の雷が落ちていた。
怒鳴っているわけではない。彼女の声は常に冷静で、そして絶対零度のように冷たい。
美しい黒髪を後ろで完璧にまとめ、ハイブランドのスーツを着こなすその姿は、昨夜コンビニにいた「ジャージ姿の幽霊」とは似ても似つかない。
(……同一人物とは、とても思えないな)
俺は自分のデスクにつき、パソコンを起動しながら横目で彼女を見た。
昨夜の彼女は、雨に濡れた捨て猫のように弱々しかった。
だが今の彼女は、獲物を狙う女豹そのものだ。
顔立ちは同じだが、纏っているオーラが違いすぎる。
俺は「李課長=コンビニの女性」説を、限りなく低い可能性として処理しようとした。
そう、その時までは。
「……橋本」
不意に名前を呼ばれ、俺は反射的に「ひっ」と小さく声を上げ、肩をすくめた。これは演技だ。気弱な部下を演じるための、条件反射のようなものだ。
「は、はいっ! 何でしょうか!」
「……」
彼女は何も言わず、俺の顔を値踏みするように見つめている。
その切れ長の瞳が、俺の野暮ったいメガネと、ボサボサの前髪、そして丸まった背中を舐めるように確認していく。
一瞬、その瞳に「確認」のような色が浮かんだのを、俺は見逃さなかった。
「……いえ。昨日の翻訳チェック、助かったわ。上海支社から『今回は修正が少なくてスムーズだった』と連絡があった」
「そ、それは良かったです」
「ただ、これ」
彼女は一枚の書類を俺のデスクに置いた。
「来週のプレゼン資料。構成は悪くないけれど、デザインが古臭いわ。もっとモダンに、かつインパクトのある配色に修正して。今日の15時までに」
「……はい、承知しました」
無茶振りである。今は10時だ。
だが、俺は反論しない。彼女の言う「古臭い」が的確であることを知っているし、それを修正できるスキルが自分にあることも知っているからだ。
「……あと」
李課長は、去り際に小さな声で付け加えた。
「……姿勢、悪いわよ」
「え?」
「背筋を伸ばしなさい。大きな体が台無しだわ」
それだけ言うと、彼女はカツカツとヒールを鳴らして自席へと戻りかけ――ふと立ち止まった。
そして、誰にも聞こえないような小声で、しかし俺の耳には届くように呟いた。
「……昨日の夜は、よく眠れたわ。……好吃」
その瞬間、俺の思考は凍りついた。
好吃=美味しい。
そして、「よく眠れた」。
その言葉は、昨夜俺がコンビニの女性にかけた言葉へのアンサーそのものだった。
さらに決定打だったのは、彼女が通り過ぎた後に残った香りだ。
いつもの高級な香水の奥から微かに漂う、出汁と味噌の匂い。
俺が昨夜、彼女のカゴに入れた豚汁の匂いだ。
(……マジかよ)
疑いは確信へと変わった。
あのコンビニの幽霊は、間違いなく李雪課長だ。
俺はPCのモニター越しに、彼女の凛とした背中を見つめた。
どうする?
気づいたことを伝えるか? 「課長、昨日はどうも」と。
いや、駄目だ。
彼女は今、完璧な「氷の女帝」として振る舞っている。
もし俺が正体を暴いてしまえば、彼女の威厳は崩壊する。それに、あんなジャージ姿を部下に見られたと知ったら、彼女は二度とあのコンビニに行けなくなるだろう。
あのコンビニは、彼女にとって唯一鎧を脱げる「聖域」なのだ。それを俺が壊すわけにはいかない。
(……知らぬが仏、か)
俺は決めた。
気づかないフリをしよう。
彼女が「李雪」として振る舞うなら、俺も「ただの親切な他人」として接すればいい。
それが、部下としての……いや、夜食のマエストロとしての流儀だ。
俺はメガネの位置を直し、ニヤリと笑う口元を隠した。
この秘密は、墓場まで持っていく。……いや、まずは今夜のコンビニまで持っていこう。
その日の業務は、予想通り過酷だった。
昼食を取る暇もなく、プレゼン資料の修正に追われ、夕方からはトラブル対応。
気づけば、窓の外は完全に夜の帳が下りていた。
「よし、終わった……」
時計を見ると、23時50分。
日付が変わる直前だ。
フロアには、また俺と李課長だけが残っていた。
「橋本、まだいたの? 残業代の上限を超えるわよ」
「あ、すみません。キリが良かったので。……課長もお疲れ様です」
「私は管理職だから関係ないの。……先に帰りなさい」
彼女はPC画面から目を離さずに言った。
その横顔には、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
昨夜の「限界OL」の正体を知ってしまった今、その疲れがより愛おしく、痛々しく感じられた。
早く何か腹に入れてやらないと。
(……今日も、行きますか)
俺は一礼してオフィスを出た。
夜の冷たい空気が、火照った頭を冷やしてくれる。
俺は駅とは反対方向へ、いつものコンビニへと足を向けた。
路地裏に入ったところで、いつものルーティンを行う。
ネクタイを緩め、メガネを外して胸ポケットへ。
前髪をかき上げ、丸めていた背筋をグッと伸ばす。
骨がポキポキと鳴り、188センチの視界が戻ってくる。
これでようやく、橋本一郎の「オフモード」だ。
そして今夜からは、彼女のための「演者」でもある。
自動ドアを抜けると、深夜特有の静寂と、揚げ物の匂いが俺を迎えた。
さて、今夜は何にするか。
弁当コーナーへ向かおうとした、その時だった。
ホットスナックのケースの前で、じっと中のチキンを凝視している後ろ姿があった。
えんじ色の芋ジャージ。ボサボサのお団子ヘア。
李雪課長だ。
会社での完璧な姿を知っているだけに、その無防備な背中がたまらなく愛らしく見える。
彼女はガラスケースの中身と、自分の財布を交互に見比べて、深刻そうな顔で悩んでいる。
俺は深呼吸をして、声をかけた。あくまで「他人」として。
「……こんばんは」
彼女はビクッと肩を震わせ、スローモーションのように振り返った。
瓶底メガネの奥の目が、俺を捉える。
一瞬、警戒心が見えたが、メガネを外した俺の顔を確認すると、その表情がパァッと明るくなった。
まるで、待ちわびた飼い主を見つけた犬のように。
「……あ。昨日の」
「また会いましたね。今日は何をしてるんですか?」
「……選べないの」
彼女は悔しそうに唇を噛んだ。
「昨日の豚汁は美味しかった。でも、今日はもっと……こう、ガツンとくるものが食べたいの。でも、どれが正解か分からない」
「なるほど」
彼女は俺が誰なのか、名前も、職業も聞いてこない。
きっと彼女も、俺が部下の橋本だと薄々気づいているのかもしれない。だとしたら、彼女もまた「他人」のフリをしていることになる。
いいだろう。
ならば、この茶番を最高に楽しもうじゃないか。
俺は少し笑って、ホットスナックのケースを指差した。
「なら、今日は少し冒険しませんか?」
「冒険?」
「ええ。昨日は体を労るメニューでしたが、今日は心を甘やかすメニューです」
俺は店員を呼び、『Lチキ』を注文した。
そしてパンコーナーに行き、『食パン』を一袋と、『スライスチーズ』を手に取った。
「チキンと……食パン?」
「このチキンを、食パンに挟みます。チーズも一緒に。そして、家のトースターでパンがカリッとなるまで焼くんです」
俺は彼女の顔を覗き込んだ。
「深夜0時に食べる、脂と糖質と塩分の塊。……名付けて『悪魔のホットサンド』です」
彼女が息を呑むのが分かった。
ゴクリ、と喉が鳴る。
理性的で健康志向の「氷の女帝」なら、顔をしかめて拒絶するだろうカロリーの暴力。
だが、目の前にいるのは、俺の愛すべき上司であり、食に飢えた一人の女性だ。
「……悪魔」
彼女はその言葉を口の中で転がし、そして、ふわりと笑った。
会社では一度も見せたことのない、無防備な笑顔だった。
その笑顔を見られただけで、今日の残業の疲れが吹き飛ぶ気がした。
「いいわね。……私、その悪魔と契約するわ」
その夜、俺たちはそれぞれの家で、同じメニューを食べることになった。
俺は自宅のキッチンで、彼女はきっと近くのマンションの一室で。
トースターから漂う、チーズとパンの焦げる香ばしい匂い。
熱々のサンドにかぶりつくと、ジューシーなチキンの脂と、溶けたチーズが口の中で暴れまわる。
「……美味い」
深夜の背徳感というスパイス。
そして何より、「彼女もこれを食べている」という事実が、味を何倍にも引き立てていた。
翌日、出社した李課長は、昨日よりもさらに機嫌が悪そうに見えた。
だが、すれ違いざまに俺の横を通った時、彼女が小さな声で独り言を呟くのを、俺は聞き逃さなかった。
「……好吃」
俺はPCのモニターに隠れて、ニヤリと笑った。
この言葉を聞くためなら、いくらでも他人のフリをしてやる。
俺と彼女の、秘密だらけの美味しい共犯関係は、この夜から本格的に始まったのだった。
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