深夜のコンビニで「死にそうな美女」に豚汁を奢ったら、翌日会社で鬼上司がチラチラ見てくる件

@DTUUU

第1章:深夜の密会と餌付け

第1話 深夜0時の豚汁と塩むすび 

 深夜のオフィスビルというのは、独特の静けさを纏っている。

 空調の低い駆動音と、キーボードを叩く乾いた音だけが響くフロア。時計の針は、とうに日付変更線を越えていた。


「橋本。この見積書の数値、根拠が薄いわ」


 静寂を切り裂いたのは、冷ややかな、それでいて鈴を転がすような美しい声だった。

 営業二課のフロア中央。そこに君臨するのは、我が課が誇る――いや、恐れる「氷の女帝」こと、李雪課長だ。


「申し訳ありません、課長。先方の予算縮小に伴い、掛け率を調整したのですが……」

「調整の意図が見えないと言っているの。ロジックが破綻しているわ。やり直し」

「は、はいっ!」


 叱責されているのは入社3年目の若手社員だ。彼は涙目になりがらデスクへと戻っていく。

 長い黒髪を完璧に巻き上げ、ハイブランドの細身のスーツを着こなす彼女は、その美貌と仕事の完璧さで社内にファンとアンチを同時に量産している。

 中国出身のトライリンガル。30歳という若さで課長職に就いた実力者。そして、部下のミスには容赦がない。


「……哈。真是的」


 彼女が小さく中国語で吐き捨てたのを、俺――橋本一郎は聞き逃さなかった。

 あれは彼女のストレスが限界に達しているサインだ。


「橋本主任補佐」

「はい」


 不意に名前を呼ばれ、俺はゆっくりと立ち上がった。

 俺が立ち上がると、フロアの蛍光灯が僅かに遮られる。

 身長188センチ、体重95キロ。

 学生時代にアメフトと柔道で鍛え上げ、社会人になってからも筋トレを欠かしていない俺の体は、既製品のスーツでは悲鳴を上げるほどデカイ。

 だが、俺はこの体を誇示するのは好きではない。

 だから普段は、度の入っていない黒縁メガネをかけ、意識して背中を丸め、前髪を下ろし、「図体ばかりデカイが気弱な大男」という擬態をとっている。


「来週の上海支社との会議資料、翻訳のダブルチェックは終わってる?」

「はい。先ほどサーバーに上げました。技術用語のニュアンスも修正済みです」

「……早いわね。助かるわ」


 氷の女帝の視線が、一瞬だけ和らいだ気がした。

 彼女はふぅ、と息を吐き、華奢な指先でこめかみを揉む。


「今日はもう上がりなさい。これ以上残っても電気代の無駄よ。……全員、解散!」


 その号令と共に、死んだ魚のような目をしていた同僚たちが、一斉に帰り支度を始めた。


 オフィスを出て、深夜の街を歩く。

 ネクタイを緩め、第一ボタンを外す。大きく息を吸い込むと、肺の中に湿った夜の空気が入ってきた。


「……腹減ったな」


 俺の胃袋が、低い唸り声を上げる。

 この巨体を維持するためには、それ相応のカロリーが必要だ。基礎代謝だけで成人男性の1.5倍はある。夕食を食べ損ねた今の俺は、ガス欠寸前のダンプカーのようなものだ。


 家まであと徒歩10分。だが、冷蔵庫の中身は昨日の朝に空っぽだったはずだ。

 週末に作り置きした牛スネ肉の赤ワイン煮込みは、日曜の夜に食べきってしまった。


「寄っていくか」


 俺の足は自然と、マンションの近くにあるコンビニエンスストアへと向いた。

 24時間、変わらぬ明かりを灯し続ける現代の灯台。

 深夜0時のコンビニは、俺たちのような社畜にとっての聖域だ。


 自動ドアが開く。

 入店音と共に、冷えた空気が肌を撫でる。

 レジには眠そうな外国人店員。客はまばらだ。

 俺はカゴを手に取り、まずは店内を一周する。これを俺は「パトロール」と呼んでいる。


 新商品の棚をチェックし、ホットスナックの在庫状況を確認。

 今の気分は……ガッツリ系か、それとも癒やし系か。

 俺の脳内で、食材のデータベースが高速で検索をかける。

 

 そんな時だった。

 チルドコーナー、ゼリー飲料やパックジュースが並ぶ棚の前に、奇妙な影があった。


「…………」


 女だ。

 背中まである長い髪は、まるで何日も手入れをしていないかのようにボサボサで、適当なお団子にまとめられている。

 服装は、首元がヨレた謎の漢字Tシャツに、高校の指定ジャージのようなえんじ色のズボン。

 そして極めつけは、顔の半分を覆うような分厚い瓶底メガネだ。


 幽霊かと思った。

 あるいは、深夜のコンビニに住み着く座敷童子の成れの果てか。


 彼女は、まるでゾンビのように揺れながら、震える手で商品をカゴに入れていた。

 チラリと見えたその中身に、俺は眉をひそめた。


 ――栄養ドリンク。

 ――カロリーゼロの寒天ゼリー。

 ――激辛するめジャーキー。


(……自殺志願者か?)


 俺の「料理好き」としての、そして「筋肉を育てる者」としての本能が警鐘を鳴らした。

 あんな食事、食事じゃない。ただの内臓いじめだ。

 顔色は青白いし、唇もカサカサだ。今の彼女に必要なのは、覚醒作用のあるカフェインでも、胃を荒らすカプサイシンでもない。


 もっと、こう……「優しさ」だ。

 五臓六腑に染み渡るような、温かくて、適度な塩分とタンパク質と糖質を含んだ、母の愛のような食事だ。


 気づけば、俺は動いていた。

 自分のカゴに入れるつもりだった商品を手に、彼女の背後へと立つ。


「……あの」


 声をかけると、彼女の肩がビクッと跳ねた。

 ゆっくりと振り返った彼女の顔を見て、俺は息を呑んだ。


 瓶底メガネの奥にある目は、焦点が合っていない。目の下には濃いクマ。

 しかし、その骨格というか、顔の造形自体は驚くほど整っていた。

 どこかで見覚えがあるような気もしたが、今の彼女の覇気のなさが、記憶の検索を妨害する。


「な、なんれすか……」


 呂律が回っていない。完全にエネルギー切れだ。

 俺は、彼女が手に持っていた栄養ドリンクをそっと取り上げ、棚に戻した。


「あ……私の命綱……」

「今の貴方に必要なのは、これじゃありません」


 俺は188センチの高さから彼女を見下ろす形になるため、威圧感を与えないよう、できるだけ声を低く、優しくした。

 そして、自分の手に持っていた二つの商品を、彼女のカゴに入れた。


 一つは、レンジで温めるタイプの『具だくさん豚汁』。

 もう一つは、シンプルな『塩むすび』。


「……え?」

「豚汁は、根菜と豚肉でビタミンB1が摂れます。疲労回復に効く。味噌の発酵成分は荒れた胃腸を整えてくれる」


 俺は早口になりそうなのを抑えながら解説する。


「あと、この塩むすび。今の顔色を見るに、たぶん低血糖とミネラル不足です。余計な具はいらない。米の甘みと、塩気だけでいい。それが一番、脳と体に速効で効きます」


 彼女は呆然とカゴの中の豚汁と爆弾のようなおにぎりを見つめ、それから俺を見上げた。

 瓶底メガネの奥で、黒い瞳が瞬く。


「……これ、食べて寝てください」

「……」

「カフェインで無理やり脳を叩き起こしても、明日の朝には反動で動けなくなりますよ。……お節介ですみません」


 俺はそれだけ告げると、逃げるようにその場を離れた。

 やってしまった。

 知らない女性、それもあんなに疲弊している人に、一方的に食事指導をするなんて。事案だ。通報されても文句は言えない。

 やはり深夜のテンションというのは恐ろしい。


 俺は自分の分の夜食を急いで掴み、セルフレジへと向かった。

 会計を済ませて店を出る際、チラリと振り返る。


 彼女はまだ、棚の前に立ち尽くしていた。

 だが、その手にはしっかりと豚汁と塩むすびが握られていて、カゴに入っていた栄養ドリンクは棚に戻されていた。


(……まあ、食べるかどうかは彼女の勝手だ)


 俺は自動ドアを抜け、夜風に当たった。

 少しだけ、いいことをしたような気分。

 いや、単なる自己満足だ。


 まさかその「死にそうな美女」が、明日会社で顔を合わせる直属の上司――李雪課長その人だなんてことには、この時の俺は微塵も気づいていなかったのだ。


 翌朝。

 少し寝坊してギリギリに出社した俺は、デスクに着くなり違和感を覚えた。


「……橋本」

「は、はいっ!」


 背後からの声に、反射的に背筋が伸びる。

 振り返ると、そこにはいつもの完璧な武装を施した「氷の女帝」が立っていた。

 一点の曇りもないメイク、完璧な巻き髪、鋭い眼光。

 昨夜のコンビニにいた幽霊とは、似ても似つかない。


「おはようございます、課長」

「……おはよう」


 彼女は資料の束を抱えたまま、ジッと俺の顔を見つめている。

 その視線が、いつもの「査定」のような鋭さではなく、どこか探るような、困惑したような色を帯びていることに俺は気づかなかった。


「あの、何か不備が……?」

「……いえ。なんでもないわ」


 彼女はふいっと視線を外し、自分のデスクへと歩き出した。

 だが、数歩進んだところで立ち止まり、背中を向けたまま呟いた。


「……昨日の夜は、よく眠れたわ」

「え?」

「独り言よ。仕事に戻りなさい」


 カツカツとヒールの音を響かせて去っていく上司の背中を見送りながら、俺は首を傾げた。

 心なしか、今日の彼女はいつもより肌艶が良い気がする。

 そして、気のせいだろうか。

 すれ違いざま、彼女から微かに、コンビニの豚汁の出汁の匂いがしたような気がした。


(……まさかな)


 俺はメガネの位置を直し、PCの電源を入れた。

 今日もまた、長い一日が始まる。

 しかし、俺と彼女の「奇妙な夜の交流」は、まだ始まったばかりだったのだ。

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