五、紅梅

 以降、相田あいださんが店を訪れることはなくなった。私はほろ苦い寂しさを押さえつけるように、いつもどおり仕事と司法試験に向けての勉強をしている。

 もしかしたらママにはあの日のことで叱責されるかもしれないと構えていたけれど、何も言われなかった。ただ、ママが「来られないと寂しいわね」とこぼしたのを聞いただけで。


「ねえ、沙耶さやちゃん、これ……」

 ある日、ホステス仲間が重い表情で私に経済誌を見せてきた。開かれたページに目を移すと、そこには相田さんの大きな写真があった。まだ若い頃の写真だろうか、その表情にはギラギラとした野心が感じられる。

「……相田、さん……?」

「お名前、相田さんじゃなくて……ほら、ここ」

『不動産再開発業界の静かな巨星 野宮のみや恒一こういち氏、逝く』

 大きな黒い文字の見出し。

「のみ、や、こういち……」

「偽名だったんだね。私たちも源氏名だけど……」

 彼女は私に雑誌を渡すと、悲しげな目をしてトイレの方へ行ってしまった。手に置かれた文字の上で、目を行き来させる。何度読んでも同じ文面。胸が痛い。文字がかすむ。

「沙耶」

 突っ立ったままの私に、ママが声をかけてきた。

「メイク、直していらっしゃい」

 その言葉で、開いたページにいくつもの涙が落ちていることに気付く。

「……せっかく隠していたのに、こんな雑誌で……」

 濡れた目でママを見てもどんな表情をしているかわからない。ただ、声に気遣いの色が少し乗っているということだけ。

 結局私はメイクを直したあとも仕事に集中できず、早退させてもらうことになった。


 ◇


「野宮はよく、あなたと会う約束を反故にしてしまったことを、申し訳ないと言っていました」

「そ、そんな。だってお体が……仕方なかった、でしょう」

「ええ。それでも、野宮はあなたに会いたかったようです」

 相田さん――本名は野宮さん、だけれど――の訃報を知ってから一ヶ月が経った頃、秘書をしていたというダークスーツの男性が訪ねてきた。ママに呼び出された私は、入口付近で彼と話をし始めた。

「そうですか……」

 涙は出尽くしたと思っていたけれど、やはり目が潤んでしまう。体調が悪いというのに、私に会いたかった、だなんて。アイボリーのワンピースの胸のあたりをぎゅっと掴んだ私の前に、男性は手に提げていた大きめの紙袋を差し出した。

「これは、あなたへのプレゼントだそうです」

「プレゼント? いえ、私は……」

「ぜひ受け取ってください。野宮の意思です」

「……はい」

 両手で受け取り、中を見てみると、そこには小さな花木かぼくの鉢が入っていた。

「梅盆栽、ですね。種類は華やかな紅梅だと、野宮が」

「……まるで雪中君子だ」

「はい?」

「あい……、野宮さんが、私のことをそう、言っていて……雪が……積もっても、しおれたりしない、強い紅梅、と……」

 袋の中を見つめたままはらはらと涙をこぼす私に男性は、「ああ、野宮なら言いそうですね」と柔らかな口調で言った。

 強くなんかない。彼の訃報を知ってからずっと私は、悲しみに倒れそうになる心を叱りつけながら自分の足で立って出勤し、家に帰ればテキストを開いていた。ただルーティンとして繰り返されるだけの乾いた毎日で、本当は今にもしおれてしまいそうだったのだ。

「ありがとう、ございました」と震える唇で言う。

「こちらこそ、野宮を支えてくださって、ありがとうございました」

 男性はやはり柔らかく、でもはっきりと、そう言ってくれた。

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