四、和歌

「やっぱりだめだったな……。お願い、なんて言っておいて……情けないやら、申し訳ないやら、だ」

「いいのです、お体に障ることをなさらなくても」

 二人が寝転がるベッドで、私は涙目になっていたと思う。相田さんの体が心配で情事に集中などできなかったのだ。彼は私の目をじっと見つめると、「ありがとう」と言って枕に頭を置いた。

「じゃあ、楽しい話をしよう」

「楽しい話……、何がいいでしょう?」

「沙耶ちゃんは、目玉焼きに何をかけて食べるのが好きかな」

「目玉焼き、ですか。うーん……」

 あごに人差し指を当てて、深刻に考えるふり。

「私は……、そうですね……、お醤油かしら」

 すると、彼はぱっと明るい笑顔になった。

「同じだ。僕も目玉焼きには醤油派でね」

「醤油仲間だわ」

 ふふ、と微笑むと、目に溜まった涙が溢れそうになる。楽しい話なのだから、涙なんかいらないのに。

「そうだ、あの古本屋に行ったことあるかな? 高架下の、不動産屋の隣の店なんだけど」

「高架下の……、あ、もしかして店先で猫がいつも寝ているところですか?」

「そうそう、あの猫が面白いんだ。女性客にはすり寄るのに、男性客は無視するんだよ」

「そうなのですか、知りませんでした。もし男性が女装して行ったらどうなるのでしょう?」

「そう思うよね? だから、前に店主に聞いてみたことがあるんだ。女装して行っても男性だということはわかると言っていたよ」

「わ、すごい。何かの才能があるんじゃないかしら」

「あっても、何に使えばいい才能なのかわからないね」

 あはは、と相田さんが笑うと、しわの深さや筋張った首で、その痩せ具合がよくわかる。心にぎゅっと苦みが絞り出される感覚が苦しい。

「古本屋さんにはよく行かれるのですか?」

「うん、僕は掘り出し物を探すのが好きでね。古今和歌集の解説本なんかが置いてあるとわくわくするよ」

「素敵。古今和歌集って恋の歌が多いんですよね?」

「うん。見えないものを愛でる繊細さと技巧を併せ持つ歌が多いね」

 言いながら、彼は自分の細い腕を見つめた。

 生き急がないで。言いたいけれど、言えない。私はホステスであり、相田さんとは店を経由して繋がっているだけなのだから。

「……どなたの、歌がお好きで?」

紀貫之きのつらゆきかな。あまり出世はできなかったみたいだけど、歌はよく詠んでいた人なんだ。中でも僕が一番好きなのは、この歌」

 相田さんの目にも、涙の膜ができているように見える。でも私はまた、見ないふりをする。

「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」

「百人一首に入っている歌だったかしら。どんな意味ですの?」

「そう。人の心、というのはわからないものだけれど、懐かしいこの場所では、花だけが昔のままの香りで咲いている。……人の心は……変わりやすいものだけど、花の香りは、昔と変わることはない、と……」

 声のかすれがひどくなっている。この人はきっと無理をしている。

「なんて美しい歌なのでしょう。でも、心変わりしない人もいるのではないかしら」

「人の心は、変わっていいんだよ。その代わり、梅は昔のままの香りで……」

「……相田さん?」

 声が途切れた。相田さん、相田さん。本当は何度も名前を呼びたい。けれど、一度だけ。代わりに、布団の中で手を繋ぐ。

「……少し、疲れてしまった。沙耶ちゃんと楽しく話せてうれしかったよ。ありがとう」

 そうして彼はまたすぐに眠りに落ちてしまった。私は、あいている方の手で少しずれている掛け布団を彼の首元まで掛け直した。

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