二章

第4話 父の冷たい言葉と疼く孤独

 コツコツシャー……。

 チッチッチッ……。

 シャーペンを走らせる音と、時計の針の音だけが私の部屋に静かに鳴り響く。

 気付けば時間は夜中の七時。休日の時間を有意義に使い、昼の一時からほぼぶっ続けで勉強し続けていた結果、外はすっかり暗くなっている。

 勉強に集中するために焚いたリラックスミストもとっくに止まっており、ベッドサイドで虚しく点滅だけしていた。


「んっ、んん~~っ!」


 勉強の休憩がてら、頭の上で手を組み大きく伸びをする。

 ポキッ……。ポキキ……。

 さっきまで固定した姿勢でいた反動で、伸びと同時に関節が小さく数度鳴った。

 この瞬間が少しだけ好きだったりする。

 勉強しか出来ない私が、必死に足掻いたその日の頑張りを告げる音。情けないと思いつつ、その音に少し救われてもいる。

 運動部で言う筋肉痛のようなものが、私の中ではこの関節が鳴る瞬間なのだ。


「楠木くん、あれから大丈夫だったかな」


 ふと、楠木くんに抱かれた日のことを思い出してしまった。

 雨と汗で湿ったユニフォーム。

 細めな見た目からでは分からないガッチリとした体つき。

 普段は教室ではお茶らけているのに、あの時だけは妙に男らしかったのも覚えている。

 そして当然、汗臭いのに嫌などころかもっと嗅ぎたいと思わせられた独特な雰囲気。

 発作的に教室で発症してしまったかまってちゃん衝動を、彼は深い追及することなく受け止めてくれた。

 それどころか数日経った今も、私に何か聞いてくることをしないどころか、自分の周りで特に変わったことがない。

 放課後の教室で、あんな姿を見られたのに、彼はそれ以上何も聞こうとしない。その優しさが、ありがたくて、少しだけ怖い。


「っと、危ない危ない。そんなこと考えてると、また衝動が来ちゃう」


 トントン……。

 こめかみを二度、右手の人差し指で軽く叩く。

 いつもの集中するためのルーティーン。

 そして、邪念を振り払うためのおまじないでもある。

 ───あの日から数日。気持ちを落ち着かせることが出来た私は、それ以降かまってちゃん衝動を発症させてない。

 いつもと変わらない、『クーデレ才女』と陰で呼ばれる日常を送っているだけ。

 楠木くんともあの日限りの関係。声を交わすどころか、顔を合わすことも無い。

 ただただ、いつもの日常を過ごしただけの数日だった。

 気持ちが落ち着いていたおかげで、ここ数日は勉強に集中出来てる毎日で気分が充実している。

 今だって、ルーティーンのおかげでまた集中出来そうな予感がしている。

 あの日の楠木くんには感謝してもしきれない。

 どっかのタイミングでこっそりお礼しなきゃダメだよね……。

 男の子はどんなものが欲しいのだろうか……。

 やっぱりカッコいいのが好きなのかな?

 こんなふうに、ゆっくりお礼を考えられる日々がもう少し続くと思っていた。

 ピロン。

 滅多に届くことのないメッセージアプリの通知が鳴った。


「いったい誰だろう……」


 どうせスパムだろう。また拒否設定しないと。

 そんなことを考えながら、通知の正体を探る。

 無機質なロック画面。無機質なホーム画面。

 面白味のないスマホ画面を開くと、そこに一名の名前が表示される。


「……お父さん」


 星乃源十郎。紛れもない父の名前と共に『帰る』の二文字だけ。

 その二文字を目で追った瞬間、さっきまで滑らかに動いていた指が止まり、喉がきゅっと乾いた。

 一か月振りの父からのメッセージ。変わらない父の文字列。

 ───父が帰ってくる。

 ソレを意識しただけで、さっきまでの集中具合は消え去り、一気に緊張感が押し寄せてきた。


「とりあえず、食事用意しなきゃ、だよね……」


 せめて仕事が忙しい父を何もなかったかのように出迎えるべく、自分に言い聞かせるように言葉を発しながら二階の部屋から飛び出し、リビングそしてキッチンへと向かう……。



 冷蔵庫を開ける。

 整然と並ぶ食材と容器たちは、どれも効率と栄養バランスを考えて選ばれたものだ。

 父の目につくのは、きっと賞味期限と栄養表示くらいだろう。


「……さて、と」


 自分に小さく合図を出して、手を動かし始める。

 手際よく野菜を切り、フライパンに火を入れ、鍋に水を張る。

 そこまで難しいものではない。父の胃に負担をかけず、なおかつ時間を食いすぎない程度の家庭料理。


 トントントン……。

 包丁のリズムに、さっきまでのシャーペンの音が重なって聞こえた。

 勉強も料理も、結局は、手順通りに、正しくこなす作業だ。

 私が私でいるために、どちらも欠かせない。


「ただいま」


 玄関の扉が開く音と、低く落ち着いた声。

 数秒遅れて、ドアの閉まる音と、革靴がフローリングを踏む乾いた足音が近づいてくる。


「おかえりなさい、お父さん」


 リビングに顔を出すと、見慣れたスーツ姿の男性がそこにいた。

 姿勢はいつも通り真っ直ぐで、ネクタイも乱れていない。

 仕事の疲れを覗わせるような素振りは、表情からはまったく読み取れない。


「出迎えありがとう。しっかりしてたか?」

「はい。言われた通りに、勉学に励み、日常生活の方も規則正しく送っております」

「それなら問題ない」


 父のスーツジャケットを受け取り、リビングのハンガーに形を整えて掛ける。

 これももう、何度も繰り返してきた動作。

 ジャケットの肩を払う指先が、わずかに震えているのを自分で誤魔化す。


「食事、用意してくれたのか」

「はい。仕事で疲れてるだろうと思い、簡単にですが用意しました」

「……そうか」


 テーブルに並べた料理に、父の視線が一瞬だけ落ちる。

 ほんの少しだけ眉が緩んだような気がしたけれど、それは私の錯覚かもしれない。


「こんなことに時間を使って、成績は落としてないだろうな?」


 やっぱり、そちらが本題だった。


「そこは大丈夫です。直近のテストでも学年一位を維持しております」

「学校の方を気にしているようではダメだ。争うべきは全国だ。アリスは推薦なんていう簡単でおちゃらけた道を行くわけではないのだから」

「その言い方は、あまりにもあんまりと言いますか……」


 推薦が“おちゃらけた道”だなんて、言われなくても分かっている。

 お父さんの中では、努力も才能も、すべて数字で証明されていなければ意味がないのだ。


「事実、私が通っていた大学では、推薦入学者で上位成績にいたものはいないが?」


 十分に知っている。耳にタコが出来るくらい聞いた。

 喉まで出かかった言葉を飲み込み、代わりに小さく息を吐く。


「分かったら、前回の模試の成績を見せなさい」

「……取ってまいります」


 一度自室に戻り、机の引き出しから模試の成績表を取り出す。

 すでに何度も見返して、点数と順位は暗記している。

 十分高い。けれど───お父さんの求める十分とは違う。


「前回より順位が十も落ちてるじゃないか。何をしているんだ」

「申し訳ありません。私の勉強不足です」


 分かってた。

 成績表を渡した時点で、こうなる未来は。


「まったく……。いまどき、料理なんて定期便の冷凍弁当で十分だろうに。こんなものに時間をかけてるから、成績を落とすんだ」

「……気を付けます」


 本当は、ただ“普通の家の、普通の夕食”が何なのかを知りたくて料理をしているだけなのに。

 それを口に出す勇気が、私にはない。


「まあいい。今からまた外に出なければならないんだ。あまり時間を無駄には出来ない」


 父は時計をちらりと見ただけで、椅子に腰を下ろす。

 食事を取る動作にも無駄がない。

 一口ごとに噛む回数も、きっと決めているのだろう。


「味は……悪くない」


 ぽつりと落とされた一言に、思わず顔を上げそうになる。

 けれど、それはすぐ次の言葉にかき消される。


「だが、成績を落としてまでやることではないな」

「……はい」


 やっぱり、そうなる。

 期待していたわけじゃない。

 けれど、どこかで少しだけ「美味しい」と言ってもらえたら、と願ってしまった自分が、情けない。

 食事を終えた父は、再びスーツの上着に袖を通しながらこちらを振り向く。


「アリス。次会う時まで、今より成績を上げておきなさい。戻して満足するんじゃないぞ。お前は人の上に立つべき人間なのだから」

「……はい。肝に銘じておきます」


 その言葉を最後に、父はまた玄関へと向かう。

 ドアの開閉音。外の冷たい空気が一瞬だけ流れ込み、すぐに遮断される。

 カチャン。

 玄関の鍵がかかる音が、妙に大きく響いた。


「……ふぅぅ」


 思わず、大きく息を吐き出してしまう。

 肩に乗っかっていた見えない重石が、少しだけ軽くなる。

 けれど、胸の奥に残った違和感は、簡単には消えてくれない。


「また、我慢効かなくなりそう……」


 ぽつりと漏れた自分の声に、自分でハッとする。

 さっきまで静かだった玄関先で、その言葉だけがやけに生々しく響いた。

 足元がふっと力を失い、その場にしゃがみ込む。

 冷たいタイルの感触が、ストッキング越しに肌へと伝わってくる。

 お父さんが出て行ったばかりのドアを、見上げることしかできない。

 胸の奥で、何かがじわじわと蠢き始めている。

 さっきまで勉強に向けられていたはずの集中力が、別の方向へとねじ曲がっていく。


「ダメ、なのに……」


 制服のスカートではない。今日は家用のスカート。

 それでも、手を滑り込ませる動きは、もう体が覚えてしまっている。

 キュッ……。

 自分で自分の太ももを掴む。

 力を入れて、爪が食い込むくらい強く。

 痛みで気を紛らわせようとしても、うまくいかない。


「誰か……助けて……」


 玄関でひとり。誰もいない家の中。

 なのに、頭の中には「誰かに見られている自分」が勝手に浮かぶ。

 教室で、窓際で、シャーペンを握りしめていたあの日の自分が。


「楠木くん……」


 名前を呼んだ瞬間、胸がきゅっと締め付けられる。

 あの日の腕の中の温度と、汗の匂いが鮮明によみがえってしまう。

 あれからずっと、落ち着いていたはずの衝動が───また、顔を出そうとしている。


「……やだ、また……っ」


 情けない。何度目かも分からない、この情けないループ。

 お父さんにも、学校の人にも、誰にも見せられない「星乃アリス」の姿。

 それでも、今この瞬間だけは、もう自分では止められそうにない。

 玄関の小さな明かりが、うずくまる私の影だけを濃く映し出していた。

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