第2話 直属の上司

戦略室は静かだった。


天井は高く、机は碁盤の目のように並び、壁際に地図と年表。

咳払い一つで視線が集まる。


奥の席に、人がいた。


壁に最も近い机。

椅子に腰かけた男が書類を読んでいる。


背筋は伸び、動かない。


ノアだ。


挨拶をしなければならない。


足が、一拍遅れた。


周囲の職員は誰もこちらを見ない。


レオは歩いた。


「……本日付で配属されました、分析官のレオです」


頭を下げる。


返事はない。


紙をめくる音だけがした。


数秒後、低い声。


「……資料」


一語。



書類を差し出す。


ノアは受け取ると、すぐに紙を送った。


一枚。

次。

また次。


速い。


最初、レオには何をしているのかわからなかった。


図面でも探しているのかと思った。必要な頁だけを拾っているのだと。


視線が止まらない。

戻らない。

迷わない。


上から下へ、一直線に落ちていく。


――読んでいる。


すべてを。


三週間かけた資料が、数十秒で終わった。


赤線。


一か所。

二か所。

三か所。


すべて、最も時間をかけた部分。


ノアの指が止まる。


赤線の一点を叩いた。


乾いた音。


そこで、空気が変わった。


温度も音も同じなのに、さっきまでとは違う。


何かが、こちらを向いた。


歯が鳴った。


かち。


次に、かち、かち。


「……使えない」


音が消えた。


床が遠くなる。


机も壁も紙も、黒く滲む。


名前が帳簿から消える。


足元が抜けた。


奈落。


喉が閉じる。


声が出ない。


数秒後、


「……補給線」


続けて、


「……三百二十」


損耗。


そういう意味だ。


補給部隊の、予測される死者数。



昼休みになっても、レオは席を立てなかった。


水を飲む気力がない。


職員たちが静かに出ていく。


誰も声をかけない。


通りすがりの視線が一度だけ合い、逸らされた。


隣の席の女性職員が、小さく首を振った。


同情か、警告か。


引き出しを開け、閉じる。


私物は少ない。


ノアは背中を向けたまま動かない。



午後、机の上に紙の束があった。


自分の作戦案。


――だったもの。


経路も配置も数字も違う。


短く、鋭い。


損耗率は下がっている。


ゼロではない。


補給部隊。三百二十人。


レオはそこを避けた。


戦闘員ではない。装備も訓練も足りない。


理屈では、作戦とは人を効率よく死なせる設計だと知っている。


それでも、前線で見た。


泥の色。

泣き声。

数字になる前の顔。


だから、わずかに逃げ道を残した。


ノアは、それを切った。


補給部隊を囮に使い、敵の注意を逸らす。


三百二十人が死ぬ。


その代わり、主力部隊の損耗は三分の一になる。


数字だけ見れば、正しい。


最終頁の端。


作成補助:レオ


消されていない。


レオは紙を握った。


これは試験だ。


人を数で見られるか。


ノアは次の書類を取り、同じ速度で読み始めた。


レオは紙から目を離せなかった。


胸の奥だけが、静かに冷えていた。



※次回は明日夜に更新予定です。

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王国戦略室の怪物 ハムチョコムギ @Hamtarotyokomugi

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