第8話
教師たちが最初に感じたのは、怒りでも反発でもなかった。
理解できないものに対する、即座の防衛反応だった。
「微積分……?」「代数学……?」
口に出してみても、音だけが宙に浮いて、意味がどこにも着地しない。
和歌の声は静かで、感情の起伏もなく、問いに対する正解を淡々と提示しただけなのに、教師たちはその無表情さにこそ得体の知れなさを覚える。
——この子は、我々の世界の前提を踏み外している。
怒鳴ることもできない。
叱る理由も見つからない。
何より、問い返す言葉がない。
それ以降、教師たちの態度は露骨に変わる。
指名は避け、板書も最低限、視線も必要以上に合わせない。
問題を起こさないために距離を取る、という、もっとも日本的で、もっとも卑怯な処世。
それは配慮のようでいて、実際には恐怖だった。
生徒たちは敏感だ。
「なんか、先生、あの子に気ぃ使ってない?」 「怒られないよね、あの子だけ」
ざわつきは、まず女子の間から広がる。
——特別扱い。
——理由のわからない優遇。
——そして、知識。
「ねえ、和歌ってさ、何知ってるの?」 「本、何読んでるの?」
和歌は、こういう距離感には慣れていた。
妹たちの世話をする中で、相手が何を欲し、どこまで踏み込めばいいかを、言葉より先に察する癖が身についている。
だから女子たちとは、驚くほど自然に打ち解ける。
教えることも、聞くことも、分け合うことも、全部、役割として処理できるからだ。
一方で、男子たちは違った。
彼らの視線には、好奇心と独占欲と、よく分からない対抗心が混ざっている。
それを向けられた瞬間、和歌の内側で冷たいものが立ち上がる。
——あ、これは面倒なやつだ。
話しかけてくる。
距離を詰めてくる。
目的も結論もなく、ただ自分を見てほしいという欲だけをぶつけてくる。
和歌は立ち止まり、淡々と告げる。
「十秒で要件を言って。十五文字以内で」 「それ以上は、時間を割けない」
声のトーンは低く、感情は乗っていない。
拒絶というより、業務連絡に近い。
男子たちは凍りつき、次の瞬間、なぜか目を輝かせる。
「……やべえ」 「何だよ、あれ」
理解されない拒絶は、彼らにとっては選ばれない魅力に変換される。
こうして、親衛隊めいた存在は、静かに、しかし確実に膨れ上がっていく。
和歌はそれを、遠巻きに見ながら思う。
——うざい。
でもその苛立ちは、怒りにはならない。
感情を表に出すことを、彼女は幼い頃から許されてこなかったから。
ただ、少しだけ、胸の奥に重たいものが溜まる。
理解されないことには慣れている。
けれど、誤解されて崇拝されるのは、もっと厄介だった。
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