第9話
夕刻、障子越しの光がやわらかく部屋に滲んでいた。春と夏の境目のような、生ぬるい風が庭の若葉を揺らし、その影が畳の上に淡く揺れる。和歌は父の前に正座していた。背筋は自然と伸びているが、緊張というより、常に何かを測るような静かな集中がその姿勢に滲んでいる。
父は文机に向かい、帳面を閉じると、ふと視線を上げた。問いかけは唐突だったが、声の調子はいつも通り淡々としていた。
「学校は楽しいか?」
和歌は一瞬、呼吸を整えた。楽しいか、と聞かれて、胸の奥で小さく何かが跳ねる。授業の退屈さ、教師たちの知古さ、男子たちの騒がしさ、それらをすべて飲み込んだうえで、それでもなお感じるものがあった。
「……学問は楽しいです」
言葉を選び、余分な感情を削ぎ落とした答えだった。父の眉が、ほんのわずかに動く。
「楽しい間は、まだだ」
その言葉は、刃のように鋭くもあり、同時に長年の経験から絞り出された真理のようでもあった。和歌は視線を落とし、畳の目を見つめながら考える。楽しい、という感覚は浅いのか。では、自分が感じているこの高揚は、何なのだろう。
「楽しいことを、追求したらダメですか?」
問いは素直だった。反抗ではなく、純粋な疑問。父は少しだけ息を吐き、窓の外に目を向ける。庭の隅で、風に揺れる草がかすかな音を立てていた。
「追求するということは、楽しいことではない」
和歌の胸に、じわりと熱が広がる。反論したい衝動が、理屈と共に立ち上がってくる。だが声は冷静だった。
「学問を深く追求した結果、西洋は発展しましたが……日本は、どうなりますか?」
父の視線が戻る。その目は鋭く、しかし怒りはない。ただ、問いの向き先を見定めている。
「私に質問するなど、意味のないことだ。その質問は、しかるべき人間に対する質問と推測するが?」
和歌は顔を上げた。目の奥で、好奇心がきらりと光る。
「しかるべき人間とは?」
「簡単に言えば、幕府の役人」
一拍の沈黙。その間に、和歌の頭の中では、学校で聞いた武士道や禅の言葉、教師たちの曖昧な説明、そして書物で読んだ異国の理論が、静かに並べられていた。
「なるほど。父様は、幕府が嫌いだということですか?」
父はわずかに口角を動かした。それは笑みとも、苦笑ともつかない。
「嫌いではない。従いたくないだけだ」
その言葉を聞いた瞬間、和歌の中で何かが確定する。父は反逆者ではない。ただ、家という単位で世界を見ている人間だ。
「それは戯言として、記憶しておきます」
言い方は丁寧だが、内容は鋭い。父の目が細くなる。
「記憶する価値もない。記憶は、記憶に値するものを記憶すべきもの」
和歌は一歩も引かない。
「幕府の歴史は、記憶すべき案件ではないと?」
父はゆっくりと首を振った。
「我々の目的は、歴史をコントロールすることではない。この家は、存続することだけが目標だ。幕府は統治せねばならない領地、領民がある。我々にはない。この家があるだけだ」
その言葉は重く、畳に沈むように響いた。和歌は黙ってうなずく。父の考えを理解したわけではない。ただ、その論理が、ひどく一貫していることを認識したのだ。
――国がなくても、学問はある。
――家のためでも、知は積み上がる。
心の奥で、静かな反発が芽生える。しかし表情には出さない。彼女はもう知っている。即答できないことが悪ではないように、今は黙ることも、敗北ではないということを。
障子の外で風が止み、庭は一瞬、音を失った。和歌はその静けさの中で、学問の楽しさが、いずれ苦しさへと変わる日を、ぼんやりと予感していた。それでも歩みは止めない。楽しい、という入口を、もうくぐってしまったのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます